6月26日は雷記念日
雷記念日は6月26日です。なぜこの日が雷記念日に制定されたのかというと、930年6月26日の午後、平安京内裏の清涼殿に落雷があったからといわれています。
清涼殿落雷事件とは
雷記念日の由来となったのは、清涼殿落雷事件と呼ばれる事件です。清涼殿とは、天皇が普段お住まいになっていた建物のことですね。ちなみに、この頃は醍醐天皇の御代でした。
当時の平安京は、干ばつに見舞われていました。そこで清涼殿で公卿(くぎょう)たちが雨乞いの相談をしていたところ、雷鳴が鳴り、清涼殿に落雷があったのです。落雷によって、大納言藤原清貫と右中大弁平希世(まれよ)が即死します。
火災も発生し、清涼殿が崩れ落ちたかと思うと、さらに紫宸殿(ししんでん/内裏の正殿)にも落雷が……。当然、宮廷内は大混乱となり、公卿や女官たちは逃げ惑ったそうです。
菅原道真公の祟り?
こちらの落雷は当時、菅原道真の祟りであるとされました。菅原道真といえば、学問の神様としても有名な、平安時代に活躍した学者・政治家ですね。
そんな彼が、なぜ“祟らなければ”ならなかったのでしょう。そして、当時の人々はなぜ“祟られた”と考えたのでしょう。それらの理由について、下記で詳しくご紹介していきます。
菅原道真の生涯
菅原道真は845年、学問で朝廷に仕える家柄に生まれます。幼少期から才能を発揮した彼は、神童と呼ばれていました。
右大臣にまで昇進
やがて道真は文書博士(もんじょうはかせ)という、学者の最高位に就任します。その後、宇多天皇から信認を得た道真は、ブレーンとして政界でも活躍します。894年には遣唐使の廃止を建議し、国風文化の発展に多大な影響を与えました。
899年には、右大臣に任じられます。右大臣とは太政大臣・左大臣に次ぐ地位です。学者の家系出身としては異例の出世だったのですが、これを面白くないと思う人物がいました。
藤原時平の讒言により左遷
その人物こそ、左大臣・藤原時平でした。藤原氏といえば、もはや説明不要の超名門貴族ですね。時平は道真よりも20歳以上若いにもかかわらず、道真よりも一つ階級が上でした。やはり、当時の藤原氏の勢いは凄まじかったのです。
ところが若き時平は、道真のことを脅威と見ていました。そこで「道真は娘婿(斉世親王)を即位させようとしている」と讒言(ざんげん)し、道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)にしてしまうのです。
大宰権帥とは、九州・大宰府における実質的な長官のことです。とはいえ、道真は官職No.3の右大臣でしたから、つまりは左遷ということですね。大宰府に飛ばされてから2年後、道真は失意のうちにこの世を去りました。
道真の祟り!?
道真の死後、都では不可解な出来事が多発しました。道真の失脚に関わった人々が、次々と謎の死を遂げたのです。
時平派の死
道真の死から3年後、道真の“たくらみ”を朝廷に報告した藤原定国が急死します。2年後には、同じく報告した藤原菅根(すがね)が、雷に打たれて死亡しています。その翌年には、藤原時平までもが突然病死したのです。
その後、道真の後任として従二位となった源光(みなもとのひかる)も死亡しています。鷹狩りの最中、泥沼に落ち、結局彼の遺体は見つからなかったのだとか。相次いだ時平派の死は、道真の祟りではないかとささやかれるようになりました。
皇太子の死・天変地異までも
他にも、道真の祟りと考えられた出来事は数多くあります。道真の死からまもなく、平安京を度重なる雷・作物の不作・疫病の流行などが襲います。923年には、醍醐天皇の皇太子・保明(やすあきら)親王が亡くなっています。
そこで彼の怨霊を鎮めるため、朝廷は道真を右大臣に復帰させ、正二位が贈られました。ところが2年後には、次の皇太子・慶頼(よりよし)王までもが、5歳という若さで亡くなってしまいます。
とどまることを知らない道真の怨霊に、都の人々は震えあがりました。そこへ極めつけとして起こったのが、清涼殿落雷事件だったのです。ちなみに即死した藤原清貫も、時平派の人物でした。
御霊信仰について
何でもかんでも菅原道真の祟りになっていますね。道真にとってはなんとも迷惑な話ですが、これは御霊(ごりょう)信仰に由来しているのです。
御霊信仰とは
御霊信仰とは、非業の死を遂げた人の霊が祟って、災いを引き起こすという信仰です。この信仰では、霊をお祀りすることによって鎮めようと考えます。
例えば、桓武天皇の弟・早良(さわら)親王をご存じでしょうか。桓武天皇の皇太子でもあった彼は、藤原種継暗殺事件(藤原種継が長岡京の造営中に射殺された事件)に関わったとして、皇太子を廃されます。無実を訴え、絶食した早良親王は、淡路に流される途中に亡くなりました。
ところが早良親王の死後、桓武天皇の皇后・生母・皇太子などが立て続けに亡くなります。疫病や洪水なども起こり、これらはすべて早良親王の祟りだと考えられたのです。そこで親王の怨霊を鎮めるため、京都御霊社が創設されました。
天神になった道真
歴史上、怨霊となった人物は他にも多くいます。菅原道真もその一人だったというわけです。993年、道真は正一位・太政大臣を追贈されていますが、これも祟りを恐れられてのことでした。
さらに道真は、天神(雷の神)として信仰され始めます。雷が落ちると「くわばら、くわばら」と言うのも、道真に由来するとされます(諸説あり)。都に落雷が頻発したときでも、かつて道真の所領だった桑原(京都)には、一度も雷が落ちなかったそうです。さすが、天神さまのなせる業ですね。
菅原道真をお祀りしている神社
最後に、菅原道真をお祀りしている神社についてご紹介します。全国で1万を超える天満宮の総本宮は、京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮です。
北野天満宮
京都市上京区にある北野天満宮は、道真の乳母・多治比文子(たじひのあやこ)らが、道真を祀ったのが始まりです。道真が多治比文子の枕元に立ち、北野の地に祀られることを希望したという言い伝えがあるようです。
当の“祟られた”藤原氏も、北野天満宮に立派な社殿を造営しています。それくらいしなくっちゃ、といった感じですね。京都駅からバスで30分程度ですので、京都観光の際はぜひ足を運んでみてください。現在の社殿は豊臣秀頼が造営したもので、国宝にも指定されていますよ。
太宰府天満宮
福岡県太宰府市にある太宰府天満宮は、道真の墓所の上に建てられたという神社です。道真の亡骸は京都には送られず、終焉の地・大宰府に埋葬されました。道真の門弟が亡骸を牛車に乗せて運んでいたところ、牛が伏して動かなくなった場所に埋葬されたといいます。
道真の死後から2年後、墓所の上には祀廟(しびょう)が造られました。さらに919年には、勅命によって社殿が造営されています。新元号「令和」の発表でも脚光を浴びた太宰府へ、一度は訪れてみてはいかがでしょうか。
まとめ
6月26日の雷記念日は、菅原道真の祟りとされた清涼殿落雷事件に由来します。道真は一流の学者ながら、政治家として右大臣に就任しました。しかし左大臣の藤原時平に疎まれ、左遷先の大宰府で非業の死を遂げます。
道真の死後、彼の左遷に関わった者の死や天変地異が相次ぎます。御霊信仰の考え方により、これらは道真の祟りであるとされました。天神として祀られるようになったのも、彼の怨霊を鎮めるためです。
「菅原道真=学問の神様」としかご存じなかった方も、こういった背景を踏まえ、お近くの天満宮へ参拝に出掛けて見てください。今までよりご利益がある……かも?