2019年の5月1日より、新元号「令和」に切り替わります。これを機に、過去の元号や時代に興味を抱いた方もいるでしょう。
平成がどんな時代であったかについて、あなた自身の人生を振り返れば分かることです。気になることは、「昭和までは、どんな時代だったのか」ということではないでしょうか。
そこで、この記事では、昭和を含めた前時代について、元号や特徴を紹介します。近代の明治・大正・昭和については、人々の生活の様子や文化の移り変わりなども詳しく説明します。
昭和の前の元号は何があったのか
昭和に入る前の江戸~近代の元号について、下記の表にまとめました。
元号が変わる理由としては、天皇の代替わり以外にも、大きな災害が起きたことなどが挙げられます。元号を改めることによって、悪い運の流れが切り替わることを願ったためです。
元号 | 元号の始期~終期 | 継続年数 | 改元の理由 |
元和 | 1615年~1624年 | 10年 | 水尾天皇の践祚や戦乱(大坂の役)などの災害 |
寛永 | 1624年~1645年 | 21年 | 甲子革令 |
正保 | 1645年~1648年 | 5年 | 後光明天皇の践祚 |
慶安 | 1648年~1652年 | 5年 | 「正保」が「焼亡」につながると批判が起きた |
承応 | 1652年~1655年 | 4年 | 徳川家綱の将軍就任のためと考えられる |
明暦 | 1665年~1658年 | 4年 | 後西天皇の践祚 |
万治 | 1658年~1661年 | 4年 | 江戸の大火事(明暦の大火)などの災害 |
寛文 | 1661年~1673年 | 13年 | 内裏火災などの災害 |
延宝 | 1673年~1681年 | 9年 | 京都大火などの災害 |
天和 | 1681年~1684年 | 4年 | 辛酉革命 |
貞享 | 1684年~1688年 | 5年 | 甲子革令 |
元禄 | 1688年~1704年 | 17年 | 東山天皇の践祚 |
宝永 | 1704年~1711年 | 8年 | 元禄地震 |
正徳 | 1711年~1716年 | 6年 | 中御門天皇の践祚 |
享保 | 1716年~1736年 | 21年 | 徳川家継の死去 |
元文 | 1736年~1741年 | 6年 | 桜町天皇の践祚 |
寛保 | 1741年~1744年 | 4年 | 辛酉革命 |
延享 | 1744年~1748年 | 5年 | 甲子革令 |
寛延 | 1748年~1751年 | 4年 | 桃園天皇の践祚 |
宝暦 | 1751年~1764年 | 14年 | 桜町上皇の崩御や徳川吉宗の死去など |
明和 | 1764年~1772年 | 9年 | 後桜町天皇の践祚 |
安永 | 1772年~1781年 | 10年 | 後桃園天皇の践祚や災害などが「迷惑年(明和9年)」によるとされた |
天明 | 1781年~1789年 | 9年 | 光格天皇の践祚 |
寛政 | 1789年~1801年 | 13年 | 内裏炎上などの災害 |
享和 | 1801年~1804年 | 4年 | 辛酉革命 |
文化 | 1804年~1818年 | 15年 | 甲子革令 |
文政 | 1818年~1831年 | 13年 | 仁孝天皇の践祚 |
天保 | 1831年~1845年 | 15年 | 江戸の大火事や京都の地震などの災害 |
弘化 | 1845年~1848年 | 5年 | 江戸城の家事などの災害 |
嘉永 | 1848年~1855年 | 7年 | 孝明天皇の践祚 |
安政 | 1855年~1860年 | 7年 | 内裏の炎上や大地震、黒船来航などの災害 |
万延 | 1860年~1861年 | 2年 | 江戸城の火災や桜田門外の変などの災害 |
文久 | 1661年~1864年 | 4年 | 辛酉革命 |
元治 | 1864年~1865年 | 2年 | 甲子革令 |
慶応 | 1865年~1868年 | 4年 | 禁門の変や社会不安などの災害 |
明治 | 1868年~1912年 | 45年 | 明治天皇の践祚 |
大正 | 1912年~1926年 | 15年 | 大正天皇の践祚 |
明治時代の文化と暮らしの特徴
明治時代は、江戸時代を支配していた徳川家が政権を朝廷に返上(大政奉還)したことによって、幕を開きました。
欧米列強の植民地化を免れるために、政府は近代化を推し進めようとします。西洋文化を盛んに取り入れる動きが始まったことで、人々の生活や街並みの様子に、西洋の趣が色濃くなっていきます。
明治時代の服装
服装の西洋化は、上流階級に所属する人々から広まり始めました。とりわけ、皇室や政府の官僚に顕著に見られるようになります。公的機関に関連する軍人・駅員・郵便局員のような人々の制服は、洋服が指定されました。
1871年(明治4年)には、散髪脱刀令(通称は断髪令)が公布されます。ちょんまげが禁止されたことで、短髪に似合う山高帽などの帽子が男性の間で流行するようになりました。
1879年(明治11年)には、「従来の和装を祭事の際に着る服装として、洋装を正装とする」という法律が定められます。しかし、洋服の文化が庶民に浸透するまでには、長い時間がかかっていたようです。
庶民の間でも、とりわけ女性に関しては、服装の西洋化は進みやすい傾向にありました。いつの時代も、女性はオシャレに敏感だからでしょう。
服装の西洋化といっても、いきなり洋服になったわけではありません。「はかま姿だけれど、ブーツを履く」や「和服の上からコートを羽織る」というように、和装のアクセントとして用いられました。
明治時代の食事
人々の食事についても、西洋化の影響が見られるようになります。
たとえば、現代では当たり前のように食べられているコロッケ・カツレツ・ハンバーグ・オムレツなどは、明治頃から広まり始めました。
ただし、明治時代の初期は、洋食を作るための食材が希少であったり(乳製品の保存が難しかった)、調理方法が庶民に知れ渡っていなかったりしたことから、家庭料理とは縁の遠いものでした。どちらかと言えば、何かの祝い事の際に、レストランで食する贅沢品という認識だったようです。
明治に流行り始めた料理といえば、牛鍋も有名です。ぶつ切りの牛肉にネギを添えて、割り下(だし汁と調味料を合わせたもの)で煮ました。すき焼きとは異なり、砂糖を加えなかったようです。
明治時代の食文化の1つは、肉食にあると言えます。近代化を進めたい政府は、肉食の文化は必要であると判断していました。また、肉食によって、欧米のように日本人の体格を大きくすることも目論んでいたようです。
しかし、仏教の影響や血抜きの技術が拙かったこともあり、これまで日本人は獣肉を食べることを避けてきました、政府が肉食を推奨しても、そう易々と浸透するものではありません。
しかし、昭和天皇自らが牛肉を試食したことで、これまでの肉食に対する抵抗感は、大きく和らいだようです。皇居に暴徒が乱入するなど、肉食について反感を抱いている人々の抵抗はありましたが、次第に肉食の文化は根づいていきました。
明治時代の住居
明治時代の住居については、それほど西洋化は普及しませんでした。建物は、気軽に建て替えられるものではないからです。
庶民は、従来のように日本家屋に住んでいました。自宅に風呂が設置されていないことが普通なので、人々は銭湯に通って入浴していました。
建物の西洋化は、公的機関に関するものに見られました。顕著な例は、諸外国の社交の場として建設された鹿鳴館です。
鹿鳴館は、レンガ造りの2階建てです。1階には大食堂・談話室・書籍室などが設けられており、2階には大きな舞踏室が設けられていました。舞踏以外の娯楽として、バーやビリヤードも用意されていたそうです。
明治時代の生活文化
西洋文化の影響を受け始めた明治時代には、生活を便利にする数々の道具が登場し始めます。
人々の生活において、とても便利で普及した道具としては、マッチとランプが挙げられます。
炊事などの火起こしについては、これまでは火打ち金と火打ち石を叩いて火花を散らし、付け木(繊維状の木など)に着火させていました。それに比べて、海外から輸入されたマッチは、ひと擦りするだけで、棒の先端に火がともります。着火までの時間は、格段に短縮されました。
明かりについては、従来は行灯やロウソクを使用していました。海外から石油式のランプが輸入されると、扱いやすさと費用の安さが評価されて、石油ランプが愛用されるようになります。
明治30年頃になると、木製の箱の中に氷の塊を入れるという簡易の冷蔵庫「氷式冷蔵庫」が登場します。定期的な氷の補充は必要ですが、食物全般を長期に渡って保存しやすくなりました。
大正時代の文化と暮らしの特徴
大正時代は、明治天皇が崩御した後、皇太子嘉仁親王が即位されたことによって始まりました。
大正時代は、たった15年しか続きませんでした。それにもかかわらず、大正デモクラシーや第一次世界大戦が起きるなど、激動の時代となりました。
大正時代の服装
人々の服装についても、より西洋化が進みました。
女学生は、はかま姿に編み上げブーツが基本となります。また、セーラー服の着用も始まりました。セーラー服は、本来はイギリス海軍の制服でした。イギリス王子が、幼年期にセーラー服を模した服を着用したことで、洋服としてのセーラー服が流行しました。
男子学生は、詰襟や背広が制服として定着します。あえて服装を崩した着こなしが粋とされており、学帽を汚したり、制服をボロボロにしたりすることが流行りました。腰に手ぬぐいをぶら下げ、インバネスコートに身を包んだ姿は、蛮カラ(西洋風の身なりや生活様式を意味するハイカラのもじり)スタイルと呼ばれました。
社会人の男性については、商業施設に勤めている人は、着物に前掛けを着用していました。工場で働く人は作業服、農業の従事者は野良着を使っていました。
いわゆるサラリーマンとして企業で働いている男性は、洋服を着て仕事をおこなっていました。ただし、帰宅した後は、和服に着替えてくつろいでいたようです。洋服に対する認識は、現代のスーツに該当すると言えます。
大正時代の食事
経済的に豊かな都市部を中心に、庶民の間でも洋食が一般化していきます。
洋食の中でも、カレーライス・コロッケ・とんかつは、大正の3大洋食などと呼ばれました。
カレーライスは、日本海軍がイギリス式のカレーを食事として取り入れたことが始まりです。除隊した軍人が故郷でカレーライスの作り方などを話したことで、庶民に普及したと考えられています。当時は、ライスカレーと呼ばれていました。
コロッケは、元ネタはクリームコロッケのようです。クリームコロッケを真似て、具にジャガイモを使ったものを油で揚げました。日本風にアレンジしたわけですね。
トンカツについても、アレンジが加えられています。もともとのトンカツ(当時はポークカツレツと呼んでいた)は、少量の油を使って揚げており、どちらかといえば炒め物に近い料理でした。日本では、大量の油で揚げる方法が主流になり、現在でも目にするトンカツの形になりました。
上記のように、西洋料理は着実に庶民の間にも広まっていきました。ただし、まだまだ贅沢品という位置づけです。庶民が普段から口にする食事は、麦飯・味噌汁・漬け物・魚の干物のように、質素なものばかりでした。
金銭面の問題もありますが、肉の多い洋食に消化器官が適応できず、胃もたれする人が多かったことも原因のようです。
大正時代の住居
都市部を中心に、電気・ガス・水道などのライフラインが普及していき、生活は格段に豊かなものに変化していきました。
庶民の住居についても、西洋建築の一部が取り入れられるようになります。たとえば、応接間が設けられたり、ガラス戸が設置されたりしました。
また、鉄筋やコンクリートを使用した建築手法が確立することにより、縦長の巨大な建築物も造れるようになります。
1923年(大正12年)に起きた関東大震災を経験してからは、鉄筋コンクリートの建物の耐震性が注目されます。以後、ますます鉄筋コンクリート製の建物が建てられるようになりました。
大正時代の生活文化
サラリーマンが増えてくると、その人々を対象にして、新聞・雑誌・ラジオ・サイレント映画などの娯楽物が生まれてきました。
新聞は、報道の速さと娯楽性を武器にして、急速に部数を伸ばしていきます。娯楽としては、有名人のスキャンダルや連載小説などが楽しまれていました。
書籍としての出版物は、「中央公論」や「文藝春秋」などに掲載される小説やエッセイが楽しまれました。講談社の大衆雑誌「キング」は、日本人の10人に1人は買ったと言われるほどの驚異的な人気を博しました。
はじめてのラジオ放送は、東京・芝浦の東京高等号芸学校(現在の千葉大学工学部の前身)の内部に設けられた仮送信所からおこなわれました。当時のラジオでは、平日は株式や商品の相場などを放送して、日曜祝日に娯楽番組や講演などを流していたようです。
映像媒体の娯楽であるサイレント映画は、映像と字幕による台詞が表示されるのみで、役者の音声などは収録されていません。日本では、映画館に常駐していた活動弁士と呼ばれる人が、映画の内容について解説していたようです。
昭和時代の文化と暮らしの特徴
大正時代が15年しか続かなかったことに対して、昭和時代は64年間も続きます。
第二次世界大戦の開戦・終戦によって、人々の暮らしは大きく左右させられました。
昭和時代の服装
明治と大正に引き続き、昭和時代も服装の西洋化が進んでいました。
昭和初期の女性の服装では、アッパッパと呼ばれるワンピースが流行しました。木綿を使った夏服であり、頭から被るだけで簡単に着られます。ワンピースの裾の部分がパッと広がるので、アッパッパとぃう変わった名前がつけられたようです。
女性用の帽子としては、フランスの帽子デザイナーが考えたと言われているクロッシェが流行りました。釣鐘のように少し縦長の帽子であり、アッパッパと組み合わせる着こなしが鉄板とされていました。
男性の服装については、女性ほど目立った変化はありません。燕尾服・タキシード・モーニングコート・フロックコート・背広服などに、山高帽とステッキを組み合わせる着こなしが基本となっていました。
しかし、昭和の華やかな服装文化も、戦争が激しくなるにつれて鳴りをひそめることになります。派手や贅沢を慎む風潮が広まったからです。
戦時中の服装は、質素で動きやすいものが好まれました。女性の服装としては、割烹着やモンペが主流になります。男性の場合は、国民服や軍服を着用することが多かったようです。
日本の降伏によって戦争が終了すると、戦争の緊張感から解放されたことも一因なのでしょうが、これまでよりも多種多様な服装が見られるようになります。
従来の常識や道徳に縛られない若者たち(通称アプレゲール)の間では、リーゼント・サングラス・カンカン帽・ボールドルックスーツにエナメル靴など、享楽的で派手なアメリカンファッションが流行りました。
その後も、体を大きく見せるボールド・ルックスーツ、ロカビリー歌手のファッションを真似た革ジャンとブーツ、太陽族のアロハシャツ、Beatlesの流行とともに広まったモッズなどのように、欧米ファッションの影響を受け続けます。
昭和時代の食事
戦争が激しくなってくると、食料を始めとした物資が乏しくなってきます。そこで、物資の使用が制限されたり、配給統制が敷かれたりするようになりました。
食料の配給については、当初は米が対象とされていました。しかし、戦争が長引くほどに、米の配給量は少なくなり、麦や豆類なども配給対象に組みこまれました。
配給制は遅配・欠配が多く、どの家庭でも食糧不足が常でした。それなので、取り締まり役人の目をかいくぐって、人々は地方の農家へ買い出しに行ったり、闇市に出向いたりして、なんとか食料品を調達していました。
普段は捨てるような部位(ミカンの皮やキャベツの芯)や虫なども食べていたそうですから、毒の無い物であれば、なんでもかんでも食糧にしていたと考えてもいいでしょう。
戦後は、アメリカからの食糧物資の援助を受けます。その代表例は、学校給食で登場するようになったパンです。当時のアメリカでは、あまっている小麦の処分に困っていました。そこで、物資援助という名目で、日本に大量の小麦がもたらされたわけです。
アメリカが小麦を大量に援助した背景には、日本人の子供たちを中心にパン食に慣れ親しませることで、復興後もアメリカから小麦を買うように仕向けたかったからと考えられています。その目論みは当たり、現在の日本では、白米と同等以上にパンが食されるようになりました。
昭和時代の住居
戦後は、空襲による住宅の消失や地方から都市へ出稼ぎに来る人が増えたなどの事情により、都市部では住宅の不足を問題になりました。そこで、団地の建設が積極的におこなわれます。
団地には、水洗トイレやガス風呂などの先進設備に加えて、台所と食事する場所が1つになっているダイニングキッチンが導入されていました。それなので、集合住宅でありながらも、団地暮らしは庶民の憧れとなりました。応募倍率は、かなり高かったようです。
昭和時代の生活文化
昭和の時代には、生活を便利にする数々の電化製品が登場しました。
大いに生活を便利にした電化製品は、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3つです。三種の神器と呼ばれていたことから、人々に重用されていたことがうかがえます。昭和30年ごろには電気炊飯器、昭和40年ごろには、家庭用の電子レンジも発売されました。
また、三種の神器とは別に、カラーテレビ・クーラー・自動車は、3Cと呼ばれて重宝されていました。
昭和を象徴する生活文化としては、ちゃぶ台も挙げられます。ちゃぶ台そのものは、明治時代の中期から存在していたようですが、箱膳(膳にもなる、食器を収めておく箱)の方が主流でした。関東大震災をキッカケとして、ちゃぶ台に移行した家庭が多かったようです。
昭和40年代以降は、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドといった外食産業が日本に上陸します。やがてファミリーレストランやコンビニエンスストアも登場するようになっていきます。
まとめ
明治を境にして、日本の西洋化が加速します。それは、政府が近代化するために西洋文化を取り入れることが必須と考えていたからです。
はじめのうちは、文化の西洋化に、人々は抵抗を持っていました。しかし、次第に西洋文化の優れた点を認め始めていき、その変化は特に服装の流行に反映されました。
文化の西洋化は、昭和の戦争が始まる前まで進んでいきました。しかし、戦争が激しくなると華美を自粛する風潮が強まり、いったんは鳴りをひそめることになります。終戦後は、それまで以上に西洋化の動きは強まりました。
近代の豊かさは、海外の良い文化を積極的に取り入れることによってもたらされました。日本の古き良き伝統を残しつつも、今後も海外の優れた文化を生活に取り入れていきましょう。
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