追儺と聞いて、すぐには意味がわからない人でも、これを知っておくと、気持ちよい生活を送るために役に立つかもしれません。
追儺とは、古い歴史のある行事の名前で、実は日本人にはおなじみの、あの行事の起源ですが、名前にはどんな意味があるのでしょうか。
今回はその意味や起源から追儺について探っていきます。追儺を知ることで、新しい季節を気持ちよく過ごせるようになりましょう。
日本独特の名前、追儺の意味とは
追儺は宮中での年間行事の名前で、読み方は「ついな」です。
中国の宮中では、旧暦の大晦日に、鬼(病気や災いをもたらす神)を追い払う行事が行われていましたが、これがさまざまな中国文化とともに日本に輸入されました。日本では706年に行われたという記録が残っています。
追儺で重要な存在は方相氏です。方相氏は必ず侲子たちを引き連れて、鬼を追い払いました。追儺の追という字には追い払うという意味がありますが、儺にももともと「はらう」という意味がありました。
その証拠に、方相氏と侲子たちは、それぞれ大儺(たいな)、小儺(こな)と呼ばれており、行事の名前も中国では、儺や大儺と呼ばれていました。
方相氏はもともと中国の古い官職の名前で、鬼を追い払う鬼神だという説もあります。
ところが日本では後に、鬼そのものへと役目が変わってしまいます。
方相氏たちの役目が変わったことで、行事そのものの名前も儺(方相氏と侲子たち)を追い払うという意味の追儺になりました。
方相氏たちの役目が鬼へと変わったのは、方相氏が葬送にも関わっていた、死にまつわる存在だったことが関係していたようです。
追儺の行事はどんなことをするの?
平安時代の追儺では、方相氏と侲子たちが内裏の中を回り、鬼を宮中から外へ追い出しました。方相氏たちだけでなく、陰陽師も鬼に供物をささげ、祭文を読み上げて協力しました。
また鬼をさらに都の外へと追いやるために、宮中の貴族たちが矢を放ったり、振り太鼓を振って、方相氏たちを応援しました。
このときの弓は桃、矢は葦でできていて、追儺には欠かせないものです。
桃は昔から不老不死の果物といわれており、鬼を払うと信じられていました(わかりやすい例えは、桃から生まれた桃太郎が鬼退治をすることです)。
葦の矢も古くから魔除けとして使われてきました。現在もお正月に欠かせない破魔矢は、葦で作っています。桃の弓と葦の矢をセットで使うことで、その力は強くなったのでしょう。
現在でも鳥取の北条八幡宮の追儺式では、矢を放つことが行事のクライマックスです。
伝統衣装に身を包んだ御弓司が鬼の的めがけて3本の矢を放つという儀式で、見事に命中すればその年の厄は払われるということです。
追儺の基本ともいえる方相氏の存在ですが、現在はあまり登場することはありません。
方相氏の存在は、鬼を追うものから鬼そのものに変わったため、圧倒的に一般的な鬼が多く登場します。
追儺は大晦日?節分?行うのはいつ?
鬼が登場することからもわかる通り、追儺が起源となって現在の節分の行事が生まれました。
節分は立春の前の日だけでなく、立夏、立秋、立冬の前日と、年に4回あるものですが、江戸時代には立春の前日だけが行事として残りました。
当時は季節の変わり目には、邪気(鬼)が生じると考えられていたため、新しい季節を無事に過ごすために厄払いが大切にされました。節分は1年で最も寒さが厳しい時期で、現在ならインフルエンザが流行することも珍しくありません。節分に鬼を追い払いたいと願う昔の人の気持ちがわかるような気がしますね。
また、昔は立春が1年の始まりだという考えがありました。農作業をする人が多かった頃は、春が1年の始まりだと考えられても不思議はありません。立春の前の日の節分は、大晦日と同じ役割を持っていたわけです。
それでも大晦日と節分は時期が違うと思われるかもしれませんが、旧暦の大晦日と節分は時期が近く、古い年の厄を払って新しい年を迎えるための追儺は節分にもぴったりだと、人々に受け入れられました。だから大晦日と節分、どちらに行っても、決して間違いではありません。
江戸時代、宮中ではすっかり行われなくなるほど、追儺は衰退してしまいましたが、節分の別名として、今でも広く使われている言葉になりました。俳句の季語や、名作の題名にもなっており、私たちの生活を彩ってくれています。
いろいろ見たい!特徴ある各地の追儺!
現在でもさまざまな寺社で、毎年追儺が行われています。
京都の平安神宮節分祭では、平安時代の追儺式を再現した大儺之儀が行われます。
作法、祭具、衣装などが細かく再現されていますし、平安神宮自体が、桓武天皇が開いた当時の平安京の大内裏の正庁、朝堂院を縮小して再現したものなので、平安時代の気分で追儺を体験できるでしょう。
中でも方相氏役がかぶる追儺面には、興味がひかれる人が多いはずです。
面に4つの金の目が描かれており、衣装とともに中国から追儺が入ってきたときの特徴をそのまま残していることがわかります。方相氏は、矛と盾を持ち、侲子たちを引き連れて、4つの門を回って鬼を払います。
同じく京都の吉田神社の節分祭でも、追儺式では方相氏が4つの金の目が描かれた面をかぶり、鬼たちを撃退します。この追儺面は、4つの目があること以外は、鬼にそっくりです。方相氏が鬼神だったという説にもうなずけます。鬼を撃退するには、鬼よりも強い存在が必要だったようですね。
こちらの追儺は平安神宮とは違い、鬼たちが参拝客を脅かしながら出て来るという、わかりやすく、誰にでも楽しめそうな演出です。また、屋台もたくさん(約800店!)出るので、家族みんなで楽しむことができますね。
また、吉田神社では、節分に年越しそばを食べることができます。このことからも、追儺は旧暦の大晦日の行事だったことが伺えますね。
この2つの神社の追儺は、現在でも方相氏の姿を見ることができる貴重な機会ですが、ほかにも追儺が楽しめる地域があります。
埼玉県の秩父市では節分の日に、各所で追儺祭が行われます。素人力士の組手が奉納されたり、神楽が奉納されたりと、それぞれ特徴があるため、どこを見ても興味深く、秩父の街そのもが盛り上がっているのが感じられます。
今では欠かせない豆まきの秘密!
どの寺社に出かけても、節分の時期に行う追儺では、必ず豆まきも行います。
やはり現在の節分には、豆まきが欠かせなくなっているようです。
今では節分の主役になっている豆まきですが、追儺を行うようになったとき、日本に豆まきは存在していませんでした。豆まきが行われたのは、1425年がもっとも古い記録です。追儺が日本で初めて行われたときとは、ずいぶん開きがありますね。
ところで、なぜ鬼を撃退するために豆をまくのでしょうか。
これには中国の医薬書に、大豆が鬼の毒に効くと記されていた、また豆が鬼を滅ぼす魔滅に通じるからとか、鬼の目をつぶす魔目に通じるから、などの説があります。
中国でも、大儺のときに五穀を使って厄除けを行っていました。それに豆が含まれていたため、日本で取り入れられたのでしょう。
現在では豆まきは寺社だけでなく、学校、家庭でもおなじみの行事です。日本全国に定着しているため、地域によってそれぞれ特色があるのも面白いですね。
よく知られているのは「鬼は外、福は内」という掛け声ですが、奈良県の金峯山寺では、「福は内、鬼も内」という掛け声です。これは鬼を追い払うのではなく、改心させて弟子にしたという役行者の故事に基づいた掛け声だそうです。
鬼と共存していこうという姿勢にも、日本人らしさを感じますね。
豆まきにも正しい作法があります。
節分の前の日に、枡に豆を入れ、神棚に供えます。
節分の豆を入れる容器には、枡をおすすめします。
昔は米や酒をはかるのに欠かせない道具でしたが、幸福が増す、ますますめでたい、などの語呂合わせから、今では縁起物としても喜ばれています。節分の豆を入れる枡は、福枡というそうですから、余計に縁起がよいですね。
節分の当日に枡を持ち、戸や窓を開け放って、外に向かって豆をまき、「鬼は外」と唱えます。その後は戸や窓を閉めて、家の中に豆をまきながら「福は内」と唱えます。
豆をまき終わったら、自分の年の数だけ豆を食べると、その年は健康に過ごせると伝えられています。
追儺よりは新しいといっても、やはり歴史のある豆まきをこれからも続けていきたいですね。
まとめ
今回は追儺について解説しました。追儺は現在の節分の起源だとわかりましたね。
節分の豆まきを子どものための行事だと思っていた人も多いでしょうが、実は古い年の厄を払い、新しい年を気持ちよく迎えるための先人の知恵が詰まった行事でした。
追儺について知ることで、私たちの節分に対する気持ちも全く違ったものになるはずです。
1年で最も寒さが厳しくなる節分に、自分が払うべき鬼について考えてみるのもよさそうですね。