日本には古くから節目に行事をする節句があり、その中には重要な五節句の1つでもある「七夕祭り」も含みます。
幼稚園や学校などに入り幼い時から七夕祭りを祝うことで、織姫様と彦星様の何ともロマンティックな物語を自然に学んでいくのも日本の風習となっていますよね。
実際に七夕が日本に入ってきた由来や、いつ頃祭りになり短冊に願いを書くようになったのか?などの事実をご存じの方はどのくらいいるのでしょうか。
なぜ七夕が日本全国に浸透したのかを知りたければ、古の時代までさかのぼらないといけません。
こちらではどの様に七夕が日本の風習となったのかなどについて触れていきます。
七夕祭りでは短冊に願いを込めて
七夕は「たなばた」とも「しちせき」とも呼ばれ、7月7日の夜に祝うものとされています。
年に1度再会できる織姫と彦星の物語が有名ですが、実はそれぞれ星座の名前がきちんとついているのです。
正確にいうと、織姫は「織女星」またの名をベガ座、彦星は「牽牛星」またの名をアルタイル座といいます。
現在ではお盆というと8月半ばのことを指すことが多いですが、昔は旧暦でお盆を迎えていたので7月でした。
そのことから7月7日にお盆を迎える準備のため、「七夕祭り」が始まった可能性も高いとされています。
またこの時期、天の川を挟んで2つの星が光り輝いていることからロマンティックなデートの物語が生まれたとか。
日本に生まれ幼少期を過ごした誰しもが「七夕様」という歌や絵本を教えてもらうのではないでしょうか。
今では短冊に願いを書いて笹に飾り付けておくということも当たり前の様になってはいますが、最初は2つの星座の「再会」を祝し自分たちもあやかって願いをかなえて欲しいというところから来ているのだそうです。
多くの方にとって七夕は織姫と彦星の切なく美しい恋物語であると思われているかもしれませんが、その物語が「七夕」と呼ばれるのには理由があるのです。
七夕はいつ頃から始まり、どこから来たの?
それでは一体七夕はいつ始まり、どこから来たのでしょうか。
今でこそ星座に名前が付き学問として学ばれていますが、当然昔にそのような教科書は存在しません。
しかし解明された知識を持ち合わせていなくても、願いをかけたり祈ったりと古き良き日本と星には大きな結びつきがあるのです。
実は七夕は中国の「きこうでん」という行事から来ています。
「きこうでん」とは中国に古くからある習わしで、織女星に願いをかけるというものでした。
当時機織りや手芸などの仕事に就いているものが、自身のスキルをもっと高めたいと織女様に願ったとされています。
もともと織女星と牽牛星は仕事の星座と言われており、7月7日の夜に女性たちが細かい手芸作業などの上達を願うイベントを作り出したということなのでしょう。
そういった風習が奈良時代、平安時代に日本にも伝わり、主に宮中の中で貴族により行われてきた行事として定着します。
(奈良時代か平安時代かは諸説あります。)この頃はまだ「七夕」という名前ではなく、「きこうでん」という中国の名前そのままの行事だったという説もありますが定かではありません。
さらに宮中は日本ならではの楽しみ方を作り上げ桃などの果物や干した鯛、アワビなどを供えたとか。
供え物をした場所で人々は星を眺めながら、詩歌を楽しんだといわれています。
このことを証明するかの様に奈良時代の貴族であり歌人の大伴家持などは、七夕についての詩歌を万葉集で謳っています。
特にこの時代にはサツマイモの葉の雫を天の川の「水」と連想し、たまった雫に墨を混ぜ梶の葉に詩歌を書いたそう。
梶の木は古から神聖なものとされ、日本でも尊い木として扱われてきたのです。
七夕としてどこまで現代の形の基礎が作られていたのかはわかりませんが、奈良・平安時代に「きこうでん」をモチーフに星に願いをして、詩歌を楽しむという風習があったことは確かな様です。
時代をこえ、願いの仕方も変化し、江戸時代になるとだんだんと一般人にも広がりました。
この頃には大衆にも手の届く、手軽な季節行事として親しまれたといいます。
「七夕」という名前の由来を考察してみよう!
七夕の起源が中国にあるということはお話ししましたが、「七夕」という名前の由来がどこから来たかが重要です。
これには説が多く、一概に決めつけることはむずかしいでしょう。
最も世間で有名な説は奈良時代以前、日本にいた「棚機津女(たなばたつめ)」という女性の伝説です。
旧暦の7月15日(6日の説もあり)に村の豊穣を願うため天から下りてくる水の神に捧げる神聖な織物を、棚機津女という汚れを知らない女性が棚にこもって織るというもの。
その棚とは川辺などにある神聖な機織り場で、選ばれた女性しか入ることは許されなかったそうです。
女性は神と一夜を過ごし身ごもって、自身も神になりました。
もちろんこれは現代でいう生贄の様なものであったという説も。
翌日、村人が全員で禊をし、その罪をも神に持って行ってもらうというのが伝説の全容です。
物語の中の棚機津女(たなばたつめ)が織物を織ること、選ばれた女性が「たなばたつめ」と呼ばれていたことが中国の「きこうでん」とかけ合わさったのではと言われている理由なのです。
「きこうでん」は織所星に針仕事などの上達を願うといういうものでした。
確かに「織物をする女性」という意味合いが棚機津女(たなばたつめ)とうまく組み合わさったのでは?と言われれば自然ですね。
ただこの説は民族学者が書いた書物の中の一説が全国に広まった原因という考え方もあり、根拠はありません。
実際に昔の日本には「タナバタ」「タナバタツメ」と呼ばれる祭祀に関わる織手の女性がいたことは万葉集でも確認されているそうで、このことからも中国から入ってきた織所のイベントと「タナバタ」が組み合わさったと考えられます。
それが時代をへて季節行事の祭りに変化したことで中国の「きこうでん」をまねして飾りなどを作り、願いをこめるようになったたのではないかというのが「七夕」の語源の説としては有力ですね。
夏の風物詩日本三大七夕祭りに出かけよう!
七夕には織姫と彦星が1年に1度あえるという伝説を祝うために、日本には各地で七夕祭りが開催されます。
中でも日本三大祭りと呼ばれているのが宮城県「仙台七夕祭り」、秋田県能代七夕「天空の不夜城」、神奈川県湘南の「湘南ひらつか七夕祭り」です。
「仙台七夕祭り」は200万人以上の方が訪れることで知られており、メインアーケードが折り紙や七夕飾りでカラフルに変身します。
歩いているだけでも心が弾んでしまいそうな色見が特徴で七夕祭りの時期は街中で多くの飾り付けを見れるので、とても活気づいています。
一方で「天空の不夜城」は、江戸の後期から伝承されていると言われている城郭灯籠がお目見えします。
能代町が文献などを参考にしながら見事に再現し、城郭灯籠の中では日本一の高さを誇り煌びやかな光を放ちながら能代の街を練り歩く姿は迫力があります。
「湘南ひらつか七夕祭り」ではパレードや大きな飾りが魅力的で、いるだけでお祭りの気分を味わえるでしょう。
毎年関東近郊から多くの方が訪れ、とても盛り上がります。
七夕飾りには笹を使い、短冊を書くのはなぜ?
七夕祭りの時に、短冊や七夕飾りを飾るのに使われるのは笹や竹ですよね。
多くの方は童謡の歌詞の影響で、笹に短冊などを飾ると思っているかもしれません。
実は七夕祭りで飾り付けをするのは「竹」が正解です。
竹には神様を迎えたり、災いを水に流すという意味合いがあるため日本古来の行事でも良く使われます。
もともと竹は天に向かいまっすぐ成長し、殺菌作用もあることからその様にいわれたという説もあるとか。
また竹は中が空洞なので神様が宿りやすいと信じられていました。
日本昔話の「かぐや姫」を思いだすとわかりやすいかもしれません。
正月飾りに門松などが使われるのも、そのためなのでしょう。
しかし現代では環境上竹で七夕飾りを作るということも難しくなっており、葉が連絡にきれいに見える「笹」を使うことも多いですよね。
一説には「きこうでん」の名前で行事をしていた時、織物関係の供え物をしている場所の目印に笹竹を立てたという話もあります。
この供えの時に5色のカラフルな糸を一緒に笹にかけたのが、短冊や七夕飾りの最初だと言われているのだとか。
確かに短冊はカラフルなイメージがありませんか?織女様に手芸の上達などの願いをかけたことがきっかけだとすると、糸をかけたという話は真実味を帯びてきます。
まとめ
いかがでしたでしょうか?こちらでは七夕がどの様に始まり、現在に至ったとされているのかなどを日本三大七夕祭りのご紹介を含め説明してきました。
日本の歴史には中国が大きく関係しているとされており、全ての謎をひもとくのは難しいですよね。
また歴史にはその時代の特色や政治的要素を多く含み、伝説も形を変えていきます。
神秘的な日本古来の歴史や風習は、知っていくと奥が深くとても面白いものなのです。