あなたは「三顧の礼」という言葉を知っているでしょうか? 具体的な意味は知らなくても、言葉だけは聞いたことがある方は多いでしょう。
「三顧の礼」は、昔の中国を発祥とする故事成語です。歴史が好きな人なら誰もが知っているであろう、劉備と諸葛亮が関わっています。
この記事では、「三顧の礼」の意味や由来について、詳しく紹介します。
「三顧の礼」の意味とは
「三顧の礼」の意味は、人間性や能力の高さに着目して、目上の者が目下の者に対して、礼儀を尽くして招き入れようとすることです。
「三顧の礼」は、あくまでも目上の者が目下の者に対して働きかけることを表す言葉です。目下の者が目上の者に対して使うと、失礼に当たります。気をつけましょう。
「三顧の礼」の使い方
「三顧の礼」という故事成語は、下の例文のようにして使います。参考にしてください。
- 「三顧の礼」をもって迎えられた以上、粉骨砕身の覚悟で事に臨む所存です。
- これだけ有能な新規卒業者なら、「三顧の礼」を尽くさなければ、わが社を選んでもらえないでしょう。
「三顧の礼」の誤用に注意しよう
「三顧の礼」は、あくまでも「仕事を依頼するために、優れた能力を持つ目下の者に礼を尽くす」という意味です。
「目上の者が失敗を犯したことを発端として、屈辱を我慢しながら、何度も目下の者に礼を尽くす」という意味ではありません。
カノッサの屈辱(ローマ法王であるグレゴリ七世が、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世から許しを得るために、雪の降る中で三日三晩も門前で立ち尽くしたという事件)と混同しないように注意しましょう。
「三顧の礼」の由来
「三顧の礼」という故事成語の由来は、昔の中国において、劉備が諸葛亮を迎える際に、諸葛亮の庵(簡素な造りの家)に3度も訪ねたことです。
この頃、劉備が40代であったことに対して、諸葛亮は20代でした。中国では儒教の考えが浸透しており、上下関係(とりわけ年齢の上下)が厳しく守られています。劉備は、儒教の社会通念にとらわれない応対をしたことで、故事成語としても有名になりました。
それでは、「三顧の礼」という故事成語が生まれた経緯について、詳しく紹介します。
劉備の軍師探しの始まり
劉備と諸葛亮が出逢った時期は、今から約1800年前の後漢末期です。
荊州の劉表の世話になっていた劉備は、劉表の跡取りを巡る内部抗争に巻き込まれつつあり、暗殺対象として狙われていました。このことを劉表の配下から伝えられた劉備は、愛馬に乗ると、慌てて逃げ出します。
すぐさま追手を仕向けられますが、途中で激流の川を渡ることで、なんとか追手を撒くことが出来ました。この先のことを考えて途方に暮れていた劉備は、とある田舎で、学者である司馬徽に出会います。
劉備は司馬徽に会うと、自分の身の上を包み隠さず話して、今後の身の振り方について助言を求めました。すると、司馬徽は、劉備の臣下に優れた軍師がいないことを指摘しました。
劉備の軍には、関羽・張飛・趙雲という豪傑がいました。しかし、彼らを効果的に指揮できる腕前を持った軍師がいない状態でした。司馬徽に指摘されたことがキッカケになり、劉備は軍師を探すことにします。
劉備がはじめに迎え入れた軍師は、徐庶でした。徐庶は的確な指揮によって、襲い来る曹操軍を打ち破ります。しかし、魏の曹操の策略(徐庶の実母の筆跡を真似て偽の手紙を送り、曹操に服従するように促した)によって、徐庶は劉備の元を去ることになってしまいます。
劉備の元を去る際に、徐庶は、自分の代理を務めるに足る軍師のことを話します。その人物こそ、諸葛亮でした。
劉備は諸葛亮に強い興味を抱き、徐庶に「城に呼んで欲しい」と頼みます。徐庶は、権力に屈さない諸葛亮の性格を知っていたため、劉備直々に諸葛亮の元へ訪ねるように進言しました。
この時、劉備は自分の領土こそ持っていないものの、すでに名の知れた武将でした。また、年齢は40歳を超えています。一方、諸葛亮は20代の若者です。
劉備の家臣たちは、劉備自らが諸葛亮の元へ訪れることに異を唱えました。しかし、劉備は家臣たちの反発を押し切って、自ら諸葛亮の住む隆中(新野城から、20kmほど離れた場所)に向かいます。
劉備は諸葛亮の住む庵に向かう
劉備がはじめて諸葛亮の庵を訪れた際は、諸葛亮は不在であり、代わりに諸葛均(諸葛亮の弟)に出会います。
諸葛均によると、諸葛亮は友人のところへ出かけており、いつ戻るか分からないと伝えられます。仕方ないので、劉備はいったん城へ戻ることにしました。
2度目の訪問は、真冬でした。劉備は「冬ならば、諸葛亮は庵で大人しくしているに違いない」と考えたからです。
劉備は諸葛亮の庵を訪れますが、またもや諸葛均が出てきます。諸葛均によると、諸葛亮はついさっき外出したばかりで、いつ帰ってくるか分からないそうです。やむなく、劉備は再び城へ戻ることになります。
劉備について回っていた関羽と張飛は、手紙を送って諸葛亮を呼びつけることを劉備に提案します。2度も足を運んだので、充分に礼儀を尽くしたと考えたからです。しかし、劉備は徐庶の忠告を思い出して、その提案を退けます。
劉備が諸葛亮の庵へ3度目の訪問をおこなった際は、運よく在宅のところを捕まえられました。しかし、折が悪いことに、諸葛亮は昼寝している最中でした。
諸葛均は「兄を起こしましょうか?」と劉備に提案しますが、劉備は「いや、起きるまで待ちます」と断ります。
しかし、ここで張飛の怒りが爆発します。これまで2度も足を運んで、しかも今度は昼寝から起きるまで待たされる羽目になると知ったので、諸葛亮が憎くて仕方が無かったからです。
張飛は諸葛亮を無理やり起こすために、庵に火をつけようとします。劉備は、慌てて張飛の暴挙を止めに入りました。この時の騒ぎが聞こえたらしく、諸葛亮は目を覚まして、庵の外に出てきました。
ようやく諸葛亮と出会えた劉備は、軍師になって欲しいと頼みます。これに対して、諸葛亮は、現状の軍勢について冷静な分析を述べて、曹操に勝つことは出来ないと答えました。
これを聞いて、劉備は涙を流しました。純粋に帝の復権と自国の再興を願って活動していたので、その希望が断たれたと知って、己の無力さを嘆いたからです。
劉備の姿を見て、諸葛亮は「この人物は真の英雄だ」と実感を深めます。悲観的な予測は、すべて劉備の器を推し量るために言ったことでした。
諸葛亮は口調を変えて、「このままなら曹操が天下を獲ることは確実だが、私の策を用いれば、曹操の野望を打ち破れることでしょう」と告げます。そして、劉備に天下三分の計(劉備・曹操・孫権の3者で、中国を三分割する計略)を伝えて、劉備の軍師となりました。
「三顧の礼」の類語
「三顧の礼」の類語としては、「草廬三顧」と「三顧の知遇」が挙げられます。どちらの言葉も、語源は「三顧の礼」と同じです。
「草廬三顧」の「草廬」とは、草ぶきの粗末な家のことです。諸葛亮が住んでいた庵のことを指しています。
「三顧の知遇」の「知遇」とは、相手の優れた人格や見識を見抜いて厚遇することです。
まとめ
「三顧の礼」は、劉備が諸葛亮を軍師として登用する際の出来事から生まれた故事成語です。目上の者が礼を尽くして、優れた能力を持つ目下の者を迎え入れるという意味があります。
目上の者が目下の者に礼を尽くすと言っても、そこには屈辱的な意味合いはありません。「恥を忍んで頼む」という意味で使わないように、注意しましょう。
また、「三顧の礼」は、あくまでも「目上の者が目下の者へ頼む」という場面で使われる言葉です。目上の方に対して使うと、失礼に当たります。
「三顧の礼」の意味や由来を理解して、正しい場面で言葉を使うようにしましょう。