「臨終」と聞くと、ドラマの1場面を思い出す人もいるのではないでしょうか。
「ご臨終です」の声に家族が泣き崩れる場面が一般的ですね。
臨終は人が亡くなること、と思っている人もいるでしょうが、実は少しだけ意味合いが違います。
今回は臨終の本当の意味と、臨終への向き合い方について解説します。
臨終の兆候、そして「臨終正念」とは何なのか、についても詳しく説明します。
「臨終」の本当の意味、「臨終正念」の大切さとは?
臨終とは死そのものではなく、死の直前の瞬間を意味しています。
人生の終わりに臨んでいる瞬間のことです。
実は臨終というのは略語で、本当は臨命終時(りんみょうしゅうじ)といいます。
人生が終わる瞬間には、よくも悪くも自分の人生の積み重ねが出てしまいます。
誰もが自分の人生に満足して、心安らかにその瞬間を迎えたいと考えています。
さらに極楽へ行きたいとか、よい来世まで期待している人もいます。
そのために昔から人々が頼ってきたのが仏教です。
仏教では悪行を積み重ねていると、安らかな死は訪れないし、よい来世も約束されないと教えられています。
そのため、どんな人でも臨終のときに心を乱さずに、念仏を唱えて仏様に安らかな死や、素晴らしい来世を願うことが大切だと考えました。
これを「臨終正念」といい、死の直前の瞬間にも正しい思いでいる、という意味があります。
臨終正念が実践できれば、極楽往生できる、つまり安らかに死ぬことができると信じられていました。
ただ、私たちはまだ誰も死んだことがありませんから、死ぬときには、どんなことを考え、感じるのかはわかりません。
死は必ずしも年齢順にやってくるわけではなく、まだ若いのに突然の死に見舞われる人もいます。
そこには様々な苦しみや思いがあるはずです。
果たして本当に念仏を唱えられるほどに落ち着いて死を迎えられる人がいるのでしょうか。
臨終正念は可能なのでしょうか。
臨終について考えると、毎日を大切に生きることにつながる
自分の臨終が近付いてから、慌てて心を安らかに保とうとしても急にはできません。
どんなことでもそうですが、この場合も毎日の積み重ねが大切です。
つまり、長年信心を積み重ねることが大切になります。
この生き方を、仏教では「多年の臨終」といっています。
今日という日と同じ日は二度とやって来ませんから、今日が最後の日、自分の臨終だと思って毎日精一杯信心すれば、それが積み重なれば、長年の信心になり、人生が終わる本当の臨終の際に正念であることが叶います。
そうすれば、極楽往生も叶うというわけです。
毎日を精一杯生きるという点には、特に信心をしていない人も共感するのではないでしょうか。
心残りをそのままにしておかない生き方をすることは、安らかな臨終を迎えるために大切です。
自分の命の期限が迫ってからジタバタするよりは、普段から心がけておきたいですね。
例えば見られたくない物はその都度処分するとか、誰かに謝るのを先延ばしにしないとか、誰でも色々と心残りの種は考えられます。
明日がある、と思っているから先延ばしにしますが、もう明日がなければできなかったことはすべて心残りになってしまいます。
自分の心残りが誰かに影響を与えるかも知れません。
多年の臨終というと大げさかも知れませんが、心残りを一つでも少なくするために、この言葉を覚えておくとよいでしょう。
臨終の兆候とは?臨終正念は不可能?
多年の臨終に対して、人生が終わる本当の臨終を「刹那の臨終」といいます。
刹那とは、仏教での時間の最小単位です。
本当に命が終わるときは、ほんの一瞬のようです。
ほんの一瞬でも、先程も説明した通り本当の臨終は、来世まで決まってしまう大切な瞬間です。
毎日の積み重ねが安らかな臨終につながり、よい来世をもたらすのですから、多年の臨終は刹那の臨終を作るということになります。
臨終正念を実現するのは、毎日の生活を積み上げる自分の心がけ次第ということです。
自分の生き方一つで、臨終の際の気持ちが安らかになり、来世まで約束されるなら励みになります。
一日一日を精一杯生ききって、その日に備えようという気持ちになりますね。
臨終正念が実現できれば理想的ですが、実際の場合、大抵の人間は臨終の兆候が表れたとき、話をできる状態ではなくなるようです。
臨終の兆候としてあげられるのは、意識がはっきりしなくなり、話しかけても反応がなくなる、呼吸の仕方が変わり、苦しそうになる、手足が冷たくなり、色も変わる、などです。
これらの兆候は医療に関係ない家族が見てもすぐにわかり、臨終が近付いたことを実感するでしょう。
一度でも誰かの臨終に立ち会った人なら、何かいい残して死んでいくことがどれだけ奇跡的なことかわかるはずです。私たちは、これから死んでいく人間が何を感じ、何をいいたいのか誰も知らないのです。
念仏を唱えることなど、不可能に思えます。それなら毎日の積み重ね、多年の臨終は無駄になってしまうのでしょうか。臨終正念は絵に描いた餅なのでしょうか。
臨終について考える!それが周りも自分も救う!
自分の臨終ではなく、ほかの人の臨終に立ち会うと考えてみましょう。
たとえその人が、話をすることができなくても、臨終に立ち会うのは、旅立ちを見送りたいからです。その人が死んで別の世界に行ってしまうまで、手を握り、体をさすり、励まして、見送りたいと願うからです。
見送る側も、見送られる側もどんなところに行くのかはわかりません。
行先がわからないのは心細い限りです。
だから励ますのです。
そんなときに、多年の臨終と言う言葉を知っていれば、心の支えになるでしょう。
自分と同じように目の前のこの人も、多年の臨終を実践してきたから(毎日精一杯生きてきたから)大丈夫、刹那の臨終(最後に亡くなるときも)もうまくいくに違いないと考えられます。
そして目の前の人の臨終正念(心安らかに死を迎えること)と極楽往生を心から願うことができるでしょう。
さらに目の前の人を失うのではなくて、別の世界に行くのを見送っているのだと考えることができるに違いありません。
見送る自分に希望が生まれるのを感じることができるでし ょう。
果たして目の前の人の死が臨終正念だったのか、確かめることはできませんが、それでも大丈夫だったと信じられるはずです。
自分が安らかに死を迎えるため、素晴らしい来世を望むための臨終正念は、まず周りの人の臨終の際に活かされることになります。
その経験が最終的には自分の臨終に活かされることになり、落ち着いて自分の臨終に向き合えるようになるでしょう。
死はどうしても避けられない自然現象だから、恐れる対象ではないと納得できるようになるのです。
臨終正念はそれが可能かどうかよりも、理想として自分の心に常に置いておきたい言葉なのかも知れません。
終を恐怖の対象にするのは、実は自分自身だった!
人は臨終の際、意識はなくなりますが、耳は聞こえていて周りで話していることを大部分は理解しているそうです。
だから家族や友人が枕元に集まり、穏やかに話すのは、とても有意義なことです。
楽しい思い出を作ってから、旅立てるならまさに臨終正念が実践できることになるでしょう。
死を恐ろしいこととして、ずっと遠ざけていると、臨終のときはどうなってしまうでしょうか。
誰の臨終に立ち会っても、その人を失い、自分が残されてしまう悲しみと怒りだけが残ってしまうはずです。
自分の臨終には恐怖しかなくなり、臨終に向き合うどころか、正気を失ってしまうかも知れません。
その臨終に立ち会った人には、暗い気持ちしか残すことができないでしょう。
死を遠ざけ、考えることを避け続けていると、臨終は恐怖しか人に与えなくなり、その恐怖はどんどん人々に伝染していくのです。
臨終が恐怖の対象になるのは困ります。
なぜなら、死はどんな人にも必ず訪れます。
死は特別なことではないからです。
自分がこの世から居なくなった後、家族や友人の心に恐怖しか残せなかったら、と考えてみてください。
誰でも残念な気持ちになるのではないでしょうか。
だから元気なうちから臨終についてよく知り、考えることは自分にとっても、周りの人にとっても大切なことです。
臨終正念というのは、昔から伝わる偉大な知恵です。
私たちはその知恵を大切にしなくてはなりません。
まとめ
今回は誰でも必ず経験する、「臨終」について解説しました。
臨終という言葉の本当の意味や、臨終の兆候についてもできる限りお知らせしました。
臨終について考えることは、縁起が悪いことでも何でもなくて、よい人生の終わりを迎えるためには、大切なことです。
よい終わりを迎えるためには、毎日をよくすることが大切になります。
多年の臨終、刹那の臨終、そして臨終正念この3つを頭の片隅にでも置いておいてください。
この言葉の教え通りに、一日一日を精一杯生きることは、いきいきとした毎日につながります。
よい臨終を迎えることが、よい人生を生きることにつながります。
なんだか不思議ですが、終わりを無視していては、人生は充実しないということがよくわかったような気がします。