亥の子餅という和菓子を知っていますか?
和菓子はその季節毎に、店先に並ぶものが変わりますが、亥の子餅は秋の和菓子です。
亥の子の亥はイノシシという意味なので、うり坊(イノシシの子ども)に似せた、かわいらしいものも見かけます。
亥の子餅はただかわいいだけの和菓子ではなく、きちんと由来があり、古い歴史を持っています。
美味しいのはもちろんですが、ある決まった日に亥の子餅を食べると、縁起がよくて長生きができるそうです。
今回は亥の子餅について、由来や歴史だけでなく、伝統的な作り方や簡単に作る方法などを紹介、解説していきたいと思います。
基本の作り方はこれ?宮中で食べられた能勢の「亥の子餅」
亥の子餅は平安時代から存在する、歴史ある和菓子です。
源氏物語に登場することはよく知られています。
亥の子餅はもともと中国から日本に伝わりました。
古代中国では、旧暦の10月(亥の月)の最初の亥の日、亥の刻(21時から23時の間)に、穀類を混ぜて作った餅を食べる風習がありました。
この日は亥の子と呼ばれるようになり、この日に食べる餅は亥の子餅と呼ばれるようになりました。
日本でイノシシは、子どもをたくさん生む縁起がよい動物とされていたので、この風習は一層しっかりと定着したのだと思われます。
1870年まで摂津国の能勢という土地(現在の大阪府豊能町)から、宮中へ亥の子餅が献上されていました。
能勢の山で、皇太子時代の応神天皇がイノシシに命を救われたことから、能勢の人たちに亥の子餅を献上するように命じたことが由来となっています。
能勢では亥の子餅の作り方は、蒸したもち米に小豆を合わせて、2本の棒で餅をつきます。
小豆が入っているので、出来上がる餅はイノシシの肉の色に似た淡い紅色になったそうです。
できたもちを箱に詰めて、更に上から小豆餡をかけ、薄く切った栗を6個並べ、最後に熊笹の葉2枚で覆います。
餅はイノシシの肉、栗は骨、熊笹の葉は牙を表していたそうです。
都が東京に遷るまで、この亥の子餅が宮中に献上されたのです。
能勢から亥の子餅が献上されていましたが、平安時代、宮中ではこれとは別に亥の子餅を作っていました。
作った亥の子餅は臣下に賜わっていましたが、亥の子餅の色と包み紙には、厳密な決まりがありました。
餅の色は黒、赤、白と3色でしたが、位によって色と包みが変えられたのです。
宮中で亥の子餅を賜ったのは今の国家公務員のような存在でしたが、今と同様の厳しい世界だったのですね。
平安時代の亥の子祭りの様子は、京都の護王神社で垣間見ることができます。
宮中では天皇自ら餅をついたそうですが、護王神社では神職が天皇役を務めて、餅をつきます(あくまでも儀式なので、本当の餅つきではありません)。
平安朝の雅な亥の子祭りを見る機会は、そうありませんから、1度は見てみたいですね。
さて、これは宮中での亥の子餅についての話です。
亥の子は武士や一般市民の間にも広まりましたから、これ以外の亥の子餅がたくさんありそうです。
「亥の子餅」の変遷!昔は栄養補助食品だった?
鎌倉時代の亥の子餅は、その年に収穫された新米に、7種の粉を混ぜて作りました。
大豆、小豆、ささげ、ごま、栗、柿、糖が混ざられた餅は、当時としては栄養たっぷりで、健康長寿や子孫繁栄を願うのにぴったりだったに違いありません。
江戸時代には、亥の子を祝うのが幕府の年中行事でした。
大名や役人たちが、将軍から赤、白、黄、ごま、萌黄の5色の餅を賜ったそうです。
この頃には、民間にも亥の子を祝う習慣が広がりました。
ちょうど米の収穫後だったことから、亥の子は収穫を感謝し、子どもの成長を願う行事、亥の子祭りへと変化していったのです。
現代では小豆餡を求肥で包んだ茶色い亥の子餅が多数派になりましたが、うり坊に似せたもののほかに、イノシシの焼き印が押されたものや、単に紅白の餅の場合もあり、バラエティーに富んでいるようです。
また現在、亥の子餅が欠かせない場所といえばお茶席でしょう。
健康長寿を願って食べられる亥の子餅ですがお茶席で食べる場合には、違った目的があります。
茶道の世界では、亥の子に炉開きが行われます。
お茶席にお湯は欠かせませんが、お湯を沸かすのに必要な炉には2種類あります。
卓上式の風炉と畳を切って作ってある地炉です。
春夏の間は風炉を使い、炉開きから(秋冬の間)は地炉を使います。
またこの日にその年の新茶を使い出すことから、炉開きは茶道の正月といわれています。
この炉開きに、亥の子餅が欠かせない存在となっています。
昔からイノシシは火に強いと信じられていましたから、江戸時代は火の用心のために、亥の子にこたつを使い始めていました。
火を使う茶席でも、同じ理由で亥の子餅を出すようになりました。
イノシシ型だけじゃない?多彩な「亥の子餅」、色々と紹介します
今亥の子餅で、もっとも多いのは、小豆餡を求肥で包んだタイプでしょう。
一見敷居が高そうな求肥作りですが、電子レンジを使用すると簡単に作ることができます。
もち粉(白玉粉)に砂糖と水を加えて、ダマができないように手でよくかき混ぜます。
これにラップをして電子レンジで加熱し、加熱後はよく練り混ぜます。
様子を見ながらこの作業を3、4回繰り返すと求肥ができます。
あらかじめ丸めておいた小豆餡を求肥で包むと、亥の子餅はほぼ完成です。
後ろはしっかり閉じないと、餡が出てしまいますから、注意してください。
亥の子餅を成形するときに、コーンスターチを使いますが、これをきな粉に変えると、色違いのイノシシが出来上がります。
金串を加熱して、餅に3本筋をつけると、見た目が本当にうり坊に見えてくるから不思議です。
市販されている小豆餡を利用すれば、和菓子に初めて挑戦する人にも意外と簡単に作れそうです。
この亥の子餅は見た目がかわいいので、お子さんにも喜んでもらえそうですね。
これとは全く違うのが、和歌山県に伝わる亥の子餅です。
うるち米(普段食べる米です)ともち米を炊いて、茹でた里芋と合わせ、すりこ木でついて餅を作ります。
丸く平べったい形に餅を成形したら、上から小豆餡をかけ、まぶします。
作り方は以上です。
とてもシンプルですね。
きっと農作業などで忙しくしていた昔のお母さんが作ったものなのでしょう。
この亥の子餅は普通の年は12個、うるう年には13個を一升枡に入れるそうです。
素朴な亥の子餅は簡単に作れそうですから、やる気になりますね。
鎌倉時代の亥の子餅を再現したのではないかと思われる作り方もここで紹介します。
大豆、小豆、ささげは固茹でして、炒っておきます。
ごまも同じく炒っておきます。
栗は固茹でにして刻みます。
これらに刻んだ柿と水飴を加え、容器の中でよく混ぜておき、炊いたうるち米と合わせて成形していきます。
うるち米は炊飯器で普通に炊いた後、すりこ木でついて、餅状にしておきます。
成形するときには、そのままでは手にくっつきますから、手にコーンスターチなどを付けておくことが必要です。
鎌倉時代を思って、興味深く食べられそうですね。
次はおはぎにそっくりな亥の子餅です。
静岡県磐田市では炊飯器に里芋とうるち米を入れて炊き、すりこぎでつぶした後、丸めます。
その上からきな粉や小豆餡をまぶして完成です。
おはぎとの違いは秋に採れる里芋を使っていることくらいで、作り方はほぼ同じです。
里芋を入れることで、うるち米でも、もち米のようにねっとりさせたのでしょう。
旬のものを使う目的もあったでしょうが、これは昔の人の知恵なのだと思います。
亥の子餅がおはぎやぼた餅に変化したという説もありますから、これはこれで正しい亥の子餅なのでしょう。
色々な地域で、色々な亥の子餅が作られていたのですね。
それぞれ違った魅力があって、どれも食べてみたくなりますね。
和菓子としては、見て楽しいものもよいですが、おはぎのような素朴なものからは、昔の人が感じた収穫の喜びを感じることができますし、細かな分量を気にしなくても作れる気楽さがあります。
とれたての新米や里芋を使って、先祖代々作ってきたのだろう、と考えると何だか楽しくなってきますね。
もし家族にお年寄りがいるなら、亥の子餅の作り方が伝わっていないか、尋ねてみるのもよいかもしれませんね。
自分が住む土地の亥の子餅で、秋の収穫を祝うのは素敵なことですよ。
まとめ
亥の子餅の由来や歴史、伝統的な作り方に簡単に作れる方法などを紹介、解説してきました。
和菓子屋さんで売っている、亥の子餅もよいですが、地域に伝わっている作り方があるなら、ぜひ自分でも作ってみてください。
地域による亥の子餅の違いを比べるのも、楽しいですね。
亥の子は旧暦の10月に行われる行事なので、亥の子餅が和菓子屋さんの店先に出るのは、新暦の11月になってからのことが多いです。
10月に買いに出かけて、がっかりしないように注意してください。
亥の子にこだわるなら、ネットで調べてみましょう。
11月何日が亥の子にあたるのか、すぐにわかります。
現代でも冬は年末年始で忙しくなり、ストレスが溜まったり、体調を崩したりする人が多くなります。
インフルエンザが流行することもあります。
11月はその冬の前に力を蓄えておく時期だといえます。
亥の子餅を食べることで健康長寿を願うことは、実は理にかなっているのです。
だから亥の子餅は平安の昔から、現代まで食べ続けられているのでしょう。
伝統と自分の体の両方を大切にできるのが、亥の子餅を食べることかもしれませんよ。