仏教では、亡くなった人は三途の川を渡ってあの世に行くと考えられています。
臨死体験をした人が「花畑がある川の向こう岸から亡くなった親戚が手を振っていた」などと語っているのをよく聞きますよね。
本当にあるの?と思う方もいるかもしれませんが、思った以上に歴史と奥深さのある信仰なんです。
そんな三途の川の意味や渡り方、賽の河原、奪衣婆などについて解説。
その起源や、海外に同じような川はあるのか、といった気になる点もご紹介します。
三途の川とは現世と死後の世界を隔てる川!
三途の川とは、現世(此岸:しがん)とあの世(彼岸:ひがん)の境目にあるとされる川です。
飛鳥時代に中国から伝わった仏教の経典の一説に基づく信仰で、平安時代末期に広まりました。
その経典では「葬頭河(そうずか)」と記述されており、これが正式名称。
ほかに「三途川(しょうずか)」「三瀬川」「渡り川」などの別名もあります。
仏教で「臨終した人は49日間かけて死後の旅に出る」といわれているのは有名ですね。
死者の魂は「死出の山」という険しい山を越えたあと死後7日目に三途の川を渡り、その後十王による裁判を受け、次で説明する六道のどれかに生まれ変わるとされています。
「三途」は仏教の三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)を指す
そもそも「三途」は何を意味するのかというと、仏教における
- 地獄道
- 餓鬼道
- 畜生道
という3つの苦しみの道、「三悪道」を指します。
先述したように、故人の魂は川を渡ったあと十王の裁判を受け、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のうちどの世界に生まれ変わるか決められます。
そのうち三悪道とされる地獄道・餓鬼道・畜生道を「三途(三塗)」といい、そこへ行く途中に渡るため「三途の川」といわれるようになったのです。
ちなみに、三悪道のそれぞれの意味は以下のとおり。
地獄道 | 大罪を犯した者が死後生まれ変わる、仏教における最下層の世界。戦争のように互いを傷つけ殺し合う。猛火に焼かれるため火途(かと)ともいう |
餓鬼道 | 生前に傲慢で貪欲な暮らしをしていた者が落ちる、飲食ができず飢えに苦しむ亡者の世界。刀剣で虐げられるため刀途(とうず)ともいう |
畜生道 | 欲望のままに生きてきた者が落ちる、畜生に生まれ変わる世界。互いに食い合うことから血道(ちみち)ともいう |
三悪道はそれぞれの別名の頭文字をとって「火血刀(かけつとう)」と呼ぶことも。
また、死後の世界だけを指すわけでなく、戦争、貪欲な生き方、他の者を差別する世の中など、現実の生活にも存在するといわれています。
三途の川は渡る場所が3つあることに由来している説も
名前の由来には、「川を渡る場所が3つあるから」という説もあります。
- 善人…金銀七宝で作られた橋を渡れる
- 軽い罪人…山水瀬(さんすいせ)という浅瀬を渡る
- 重い罪人…強深瀬(ごうしんせ)という難所を渡る
生前の行い・罪の重さによってどこから渡るかが決められていて、自分で選ぶことはできません。
善人は橋を渡ることができ、後述するように渡し船に乗ることも可能です。
山水瀬は、足は濡れてしまうものの水位は膝元を超えず、楽に渡れます。
強深瀬は「江深淵(こうしんえん)」ともいい、激流で波はとても高く、川上からは大きな石も流れてくるという過酷さ。
このように3つの渡し場があるため、三途の川と名づけられたという説です。
三途の川の渡り方!渡し賃としてお金を出せば船に乗れる?
もともとは善人なら橋で川を渡れるといわれてきましたが、平安時代の終わり頃になると「全員が渡し船に乗って渡ることができる」という説が強くなりました。
この渡し船に乗るには、渡し賃として六文(文=江戸時代の通貨)を払う必要があるといいます。
そのため、葬儀では故人に六文銭の入った頭陀袋を持たせるという風習が生まれました。
現在も火葬の妨げにならないよう、六文銭を印刷した紙を持たせるという形で残っているんです。
ちなみに六文は現代の価値でいくらくらいなのでしょうか。
江戸時代は265年も続いており文の価値も時期によって変動しているため、一概には言えませんが、現代の3百円ほどだとされています。
3百円あれば渡し船に乗れるというのは、庶民にとって大きな救いとなる考え方だったのでしょう。
三途の川にある「賽の河原」では石積みの刑が行われる
賽(さい)の河原とは、三途の川のほとりにある河原。
両親より先に亡くなった子どもたちが、死後の世界へいく前に親不孝の償いとして石積みを行う場所でもあります。
これがいわゆる「石積みの刑」です。
その内容は、河原にある小石をひたすら積み上げて塔を作るというもの。
高く積み上げると鬼が来て塔を壊してしまうため、延々と作り続けなければなりません。
しかし、最終的には六道を巡って人々を救済する「地蔵菩薩」が子どもたちを救ってくれると信じられています。
地蔵菩薩はお地蔵さまのことで、昔から子どもの守り神として信仰されてきました。
そのため水子供養のために安置されたり、赤いよだれ掛けや頭巾を奉納したりするんです。
ただ、賽の河原に関する教えは仏教の経典には出てこないため、あくまで民間信仰のひとつであると考えられています。
三途の川を渡った先には衣類を剥ぐ奪衣婆がいる
川の対岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、そこには懸衣翁(けんえおう)・奪衣婆(だつえば)という老夫婦の鬼がいるとされています。
奪衣婆が亡者から衣類を剥ぎ、懸衣翁がその衣類を衣領樹にかけ、枝のしなり具合で生前の罪の重さを推し量るそうです。
罪の重い人は深くて流れも速い「強深瀬」から川を渡らなければならないため、衣類も水を吸って重くなります。
そのため、枝のしなり具合で罪の重さがわかるというわけです。
しかし江戸時代頃になると、先述したとおり「六文銭を差し出せば衣類を剥ぎ取って罪を計られることはなく、渡し船に乗る(橋を渡る)ことができる」との説が広まりました。
六文銭はお賽銭のような扱いのため、生前の罪を悔い改めて信心するという気持ちを表すことで、無事に向こう岸まで渡れるとされているんです。
もし六文銭を持っていなかった場合、やはり奪衣婆に衣類を剥ぎ取られてしまいます。
三途の川の基となる概念は縄文時代からあった!
三途の川の信仰は平安時代末期から民間に広まりましたが、実は縄文時代からこれに近い概念が存在したと考えられています。
新潟県にある「奥三面遺跡」は、縄文時代後期から晩期に栄えた村の遺跡です。
人が住む集落と墓地の間に、人工の川が作られたと思われる跡が発見されました。
このことから、縄文時代には現世と黄泉の国の境界として川を意識していたことが伺えます。
また、奈良時代に成立した日本書紀には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が黄泉の国から帰ってきたときに「三瀬川」という川の中流で体を洗って清めたと記述されています。
この三瀬川が転じて三途の川になったという説もあるため、冒頭でご説明したとおり別名に三瀬川があるんですね。
それ以外にも、群馬県甘楽町には奈良時代の高僧・行基が名づけたと伝えられる「三途川」という川があります。
川のほとりには姥子堂(うばごどう)という小屋があり、行基が彫ったとされる奪衣婆像も祀られているんです(現在ある像と堂は江戸時代に再建したもの)。
こんなに古くから川にまつわる信仰があったことを知ると、何ともいえない奥深さや荘厳さを感じますね。
海外にも三途の川に似た川がある!英語では「Styx」という
三途の川は仏教の経典に由来していますが、海外にも似通った伝承がたくさんあります。
現世と黄泉の国が川によって隔てられている、という考え方は世界に広く存在しているんです。
たとえばギリシャでは、「ステュクス川」という川があると伝えられています。
ギリシャ神話に出てくる川で、現世と冥界を分ける、三途の川と同じような川です。
ステュクス川を渡るには、カロンと呼ばれる渡し守に1オロボスの渡し賃を払う必要がある、という点もよく似ています。
ステュクス川の英語表記は「Styx」。
もし三途の川を英語で表したい場合は「仏教にもステュクス川と同じような川があるんだよ」という意味でStyxを使うのが代表的です。
そのほか、海外には川にまつわるこのような言い伝えがあります。
- エジプトではナイル川の西岸を死後の世界と捉えている
- 北欧神話にはヨル川という川が登場し、モットグッドという美少女が橋番をしている
- 古代インドではヴァイタラニー川を渡り死者の国へいくといわれていた
世界中に同じような伝承があることを知ると、川の向こうに死後の世界が本当にあるのかもしれないと思えてきますね。
日本では昔から水辺をどこか死に近い存在として捉えており、「幽霊が集まりやすい」「お盆には水辺に近づいてはいけない」などともいわれてきました。
なんとなく半信半疑で聞いてきたこのような言い伝えも、意味のある先人の言葉に感じられます。
三途の川は仏教に基づいた古来から伝わる奥深い概念
三途の川とは何なのかから始まり、渡り方、渡し賃、奪衣婆などについて解説してきました。
その伝承には、正式には仏教と関係がなく俗信として伝えられてきたものも多くあります。
しかし由来や謂れを紐解けば、想像以上に歴史のある奥深い伝承であることがわかりましたね。
現世と黄泉の国の境界線として川が存在するという意識は縄文時代からあったと考えられ、今現在も三途の川に似た信仰が世界中に残っています。
いざ川を渡ることになったときに困らないよう、また三悪道に落ちないよう日頃からいい行いをしていきたいですね。