諸手船神事って何のことでしょうか。また一体なんて読んだらいいのでしょうか。島根県松江市美保関で行われている諸手船神事をご紹介します。冬の海で船の上で水をかけあっているお祭りの映像を見たことがある方もいるかもしれません。町の氏子が全員参加する驚きの神事の由来や、神事について流れを追ってみていきます。新嘗祭は耳にするものの諸手船神事は聞いたこともないという方のために関連についてもご紹介していきます。
『諸手船神事』の由来
『諸手船神事』とは、なんと読むか知っていますか?『諸手船神事』は、『もろたぶね神事』と読み、毎年12月3日に島根県松江の美保神社で行われる『国譲り神話』にちなんだ神事です。諸田船神事は、美保神社のご祭神である事代主神(ことしろぬしかみ)が、美保の関で釣りをしている最中に父である大国主神(おおくにぬしかみ)の使いの神様が熊野諸手船2艘で迎えに来て、国譲りの相談を受けた様子を儀礼化しているといわれています。
美保神社とは
島根県松江にある神社で延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)で官舎に指定されている神社の一つです。延喜式神名帳というのは、「延喜式の内に記載された神社」の意味。延喜式内社(式内社・しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といって神社の社格をあらわします。神社の社格という普段は耳慣れない言葉ですが、神社にもいろいろお祀りしている神様や、神社設立の由来により格式があるのです。ちなみに美保神社の社格は国幣中社。
式内社は、現在2861社あり、お祀りしている神様は、3132座です。
美保神社のご祭神は、五穀豊穣の神様である三穂津姫命(みつひめのみこと)と大国主神の子である事代主神(ことしろぬしかみ)、別名恵比寿様です。
国譲り神話とは
葦原中国の平定として古事記や日本書紀に記載があり、ここから天孫降臨神話につながっていくカギとなる神話です。天上の国である高天原(たかまのはら)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ)が、地上の国である日本、豊葦原瑞穂の国(とよあしはらみずほのくに)を自分の子孫が治めるので、地上を治めていた大国主神(おおくにぬしかみ)に統治権の譲渡を要求しました。
最初に天照大神の使者としてアメノホヒノカミが来ましたが、何の返事もないまま年月が過ぎてしまい、次にアメノワカヒコミコトが使者としてきますが、大国主神の娘と結婚して結局、統治権譲渡の要求をしなかったといわれています。そして、3回目の使者として建御雷神(たけみかづちのかみ)とアメノトリフネガミが出雲の稲佐の浜に来て、大国主神が支配する葦原中国は天照大神が支配する国なのでその子孫が治めるべきだといって、譲渡を迫ったのです。大国主神は自分だけでは決められないので、御大之御前(みほのみさき)、現在の美保関で釣りをしている長男の事代主神が答えるのが良いといわれ、判断を事代主神に委ねました。
そこで、アメノトリフネガミが船で事代主神を迎えに行きました。この時の船が熊野諸手船です。事代主神は、父に対して自分に判断をゆだねられるなど恐れ多いことですが、この国は天照大神の御子に差し上げましょうと答えたといわれています。その後、天逆手(あめのさかて)という呪いをするときに行う通常とは違う柏手を打って乗ってきた船を踏み傾けて、青柴垣(あおふしがき)に変えて隠れてしまいました。その後弟の建御名方神(たけみなかたのかみ)が反対しますが、建御雷神と勝負して負けてしまったので、大国主神は国譲りを承諾したというお話です。
諸手船神事とは。流れや神事の内容を紹介
国家安泰、五穀豊穣、豊漁を祈願して八百穂祭として行われていましたが、現在は新嘗祭と合わせて、事代主神の忠誠と心情を偲んで、毎年12月3日に行われています。一連の儀式は1週間前の11月27日から始まります。
- 地主社での宵宮:11月27日
- 御注連縄懸式:12月1日夜には、客人當による神楽奉納
- 潮掻き:12月2日 海中で身を清める
- 末社・客人社での宵宮:12月2日 神職と氏子らによる奉幣の儀と巫女による神楽奉納
- 新嘗祭:12月3日午前中
- 客人社直會(まろうどしゃさいなおらい)
- 諸手船神事:12月3日午後
諸手船神事
メインとなる諸手船の神事は、大きく分けると社殿で行われる神事と宮灘という海で行われる神事の2種類があり、流れは次の通りです。
- 奉幣の儀
- 巫女舞
- 御籤:諸手船に乗る氏子を神職が御籤(みくじ)で決めます。船に乗れるのは18人だけのため、御籤で決まった人が老人であったり体調が悪い人の場合はその人の御籤や装束を取り合う『御籤奪い』が行われます。
神職が御籤で指名するのは1艘につき次の役職です。
真剣持ち(まっかもち)1人使い神のしるしである剣をかたどった祭具を持つ人
大櫂(おおがい) 1人 舵取り役で天照大神の使者の役割
大脇(おおわき) 1人舵取りの補佐
櫂子(かこ) 6人 諸手船の漕ぎ手
- 諸手船三度乗り戻す:客人社を拝礼後、3回乗り戻す
- 應答祝言(おうとうしゅうげん):大櫂と神職のやり取り『タカー三度乗って参って候』『タカー三度めでとう候』
- 諸手船三度乗り戻す
- 真魚箸式(まなばししき):直會の儀式で世話人が箸を使って鯛を捌く
見どころと諸手船について
諸手船神事は、美保神社の氏子が総出で行う神事であることが大きな特徴です。この神事に参加することは神とのやり取りをすることになるため、日常生活でも大きな制約が生じます。役前になる氏子の6人は、1年間鶏肉・鶏卵を食べないとか毎日潮搔きをして身を清めたりするなど厳しい潔斎を行っています。諸手船に乗るということは簡単なことではありません。もちろん、美保関の人が身を清めている最中の人に出会わないようにするなどの協力をしているなど、美保関全体で支えているといっても過言ではないのです。
鶏卵、鶏肉を食べないのがなぜか不思議に思うところですが、これは、神話に由来します。事代主神が船で三嶋溝杭姫の元に通われていた時に鶏の鳴き声を合図に美保に戻られていたが、ある時鶏が鳴く時間を間違えて真夜中に鳴いたために急いで支度をして船に乗って帰った。その時に櫂を積み忘れ、足で船をがざるを得ず、ワニに足をかまれてしまったという逸話があり、そのようなことになったのは鶏が鳴く時間を間違えたからということで、美保関では、神職だけでなく地元では鶏、鶏卵を食べないこととなったそうです。今でも神職と役前の6人の氏子はこれらを絶つことになっています。
さて、この神事での見どころは、昔の装束の氏子が12月の海で2艘の諸手船がお互いの船に水をかけあいながら競い合って3度も対岸まで往復するところです。美保神社の氏子しか諸手船には乗れませんが、ホーラエッチャという美保関に伝わる踊りで諸手船に乗る氏子たちを先導する行列に参加できます。長じゅばんに鉢巻・たすき掛け姿で青竹を打ち鳴らし踊るホーラエッチャは、『宝来』からくるといわれています。これは地元の方以外でも人数が20人と制限はありますが松江観光協会で申し込めますので、参考にしてください。ちなみに、ホーラエッチャは、同じ島根県の山辺神社でも祇園大祭の神事で行われています。
諸手船神事で使われる諸手船は1955年に重要有形民俗文化財に指定されています。諸手船は、もともと1本の木をくりぬいて作られていましたが、今は木をくりぬいたものをつなげ併せて作っています。
美保関ってどんなところ?
美保関は、美保神社の他にも日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)、方結神社(かたえじんじゃ)、爾佐神社(にさじんじゃ)、横田神社などの延喜式神名帳に記載のあるような歴史ある神社があり、1年を通じて神事が多くある地域です。
古くから漁業と海洋航路の玄関としての役割を果たしてきました。美保港からは、海から切り出した青石を敷き詰めた石畳が積を運ぶのに役立っていました。青石畳通りは歴史文化財百選に選ばれています。海への玄関口として地蔵崎は、美保神社の飛び地境内の鳥居があります。またこの岬には世界東大百選にも選ばれている美保関灯台があります。
また、少し離れますが、妖怪にちなんだ神社や、水木しげるロード、記念館、ゲゲゲの妖怪楽園などがあり、神秘的な土地ならではな感じがします。
歴史的には、流刑地である隠岐島には、江戸時代の終わりまでに多くの皇族、公家、学者や僧侶が流されましたが、その隠岐島に渡るための潮待ち、風待ちのための滞留の地が美保関でした。その為、平安時代から多くの歌がこの地で読まれてきました。小野妹子の子孫の和歌、『わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人にはつげよ 海土のつり舟』は百人一首の一つにもなっています。後鳥羽上皇はここで『しるらめや 浮世を身を(三保)の裏千鳥 泣く泣くしぼる 袖の景色を』を含めて4首も詠んでいます。
美保関は、神々の地であるのと同時に海運、漁業、流刑地への滞留地など歴史的にいろいろな側面を持った神秘的な土地で、それを今も感じることができる土地です。
まとめ
- 諸手船神事は、もろたぶねしんじと読み、美保神社で行われる水かけの神事
- 天照大神の子孫が日本を治めることになる起源につながる国譲り神話に基づく神事が諸手船神事の由来
- 参加する氏子は1年以上の準備をして当日に臨み、それを地域で支えています。
諸手船神事は、12月に諸手船に乗って水をかけあうところが有名ですが、地域全体で神事を行っています。見学だけでなく参加もできますので、神秘的な雰囲気のある美保関を楽しむ一つの方法として検討するのも良いかもしれません。