「五月富士」は5月の富士山、と思われがちですが実は旧暦の5月のことをさします。五月富士はどういう意味でいつの季語なのでしょうか、今回はこちらで詳しくご紹介しています。また、五月富士という季語をつかった俳句をご紹介し、その中でも特に有名な芭蕉の句をとりあげ、解説も加えました。遙か昔、万葉集のころから詠まれている富士山、五月富士を現在のわたしたちの目で見て改めて感じてみませんか?
五月富士とは?季語はいつ?
五月富士(さつきふじ)とはどういう意味でしょうか。その文字の通り5月ごろの富士山、と思いがちですが、実はそうではありません。この五月とは旧暦の5月をさすものなので、実際は現代の暦の5月よりももう少し遅い時期となります。
旧暦の5月は和暦の年の初めから5番目の月となり、夏至を含む月、となるため、大体現代の暦の6月のはじめから7月のはじめくらいまで、をさします。年によっては5月のおわりくらいから、になる場合もあります。ですから、五月富士とは5月の富士山、というわけではなく、旧暦5月の富士山のこと、つまり、もう雪解けも終わった頃の、季節でいえば春よりはほぼ初夏のころの富士山、ということになります。
従って、季語も「夏」になります。五月富士あるいは皐月富士、という言葉を使った俳句は芭蕉をはじめ、さまざまな有名俳人が歌にして詠んでいます。雪の冠も消え、下界は初夏、緑も濃く、富士山もずいぶんと立派に風景の中に登場することでしょう。現代においてはエアコンなどももう稼働している頃かもしれません。五月富士とはまさにそういった季節の富士山のことを言うのです。
五月富士を使った俳句
それでは「五月富士」を季語として使った俳句をいくつかあげ、ご紹介しましょう。
・目にかかる時やことさら五月富士
こちらは松尾芭蕉の句です。芭蕉翁行状記(1695年刊行)に収録されており、こちらには芭蕉の晩年の旅の様子や句などが載せられています。五月富士といえばこの句を浮かべる方は多いかもしれません。
・出て見せつ隠れつ雲の皐月不二
こちらは白井鳥酔の句。白井鳥酔は1701年に生まれ、1769年に没した江戸時代中期を代表する俳人です。弟に家督を譲ったあとは俳諧の道に没頭、諸国を歩いて回り、芭蕉らの作品を世に知らしめていきました。また、鹿島神宮に芭蕉句碑を建立した人物でもあります。こちらの富士の句は「夏山伏」におさめられています。
・五月富士々湖のいろかはる
こちらの句は加藤楸邨の作品です。加藤楸邨は1905年生まれ、1993年に亡くなっていますが、近代現代を代表する俳人です。芭蕉や一茶らの作品を同じ俳人としての立場から批評し、世に広めたことでも有名です。評釈に「芭蕉講座発句篇」、「一茶秀句」などがあります。
・一条の煤煙のもと皐月富士
こちらの句は中村汀女のもの。中村汀女は1900年に生まれ、1918年高浜虚子に入門したのち、「ホトトギス」の女流俳人として活躍しました。代表作品として、「汀女句集」、「春雪」、「春暁」などがあります。
・眉の間に五月富士おき歩きけり
この句は上野泰の句です。上野泰は大正から昭和に生きた俳人で、妻は高浜虚子の娘、章子です。こちらの五月富士の句は「春潮」におさめられています。
もちろん、このほかにも「五月富士」を季語にした俳句はたくさんあります。五月富士とは歌に詠みやすい、また、俳人の心を動かす情景なのでしょうね。
五月富士と芭蕉
ところで、上の項で松尾芭蕉が詠んだ「五月富士」の句をご紹介しましたが、この「目にかかる時やことさら五月富士」という句は芭蕉にとってはとても重要な句となっています。こちらで少し掘り下げてみましょう。
こちらの句は上記しましたが「芭蕉翁行状記」におさめられています。「芭蕉翁行状記」は八十村路通の著で、芭蕉の最後の旅の様子や、芭蕉の略歴などが記されており、また死後、各方面からの追悼の句などが添えられているものです。ですから、この芭蕉の五月富士の句は、晩年に近い時に詠まれた句である、ということがお分かりいただけると思います。
さらに、こちらの句は元禄6年(1693年)5月に詠まれているようです。芭蕉が亡くなったのは1694年ですから最晩年ですね。そしておそらくこの句が、芭蕉が富士山を詠んだ最後の句だとも言われています。どうでしょう、それを知ってからこの句を見るとまた違った捉え方ができそうですね。
芭蕉が見た最後の富士は五月富士でした。この句からは五月富士がその雄大な姿を晒しているように感じられます。「ことさらに」とありますからさらに強調されている感じがしますね。天気は快晴で、雪も解けた富士山が堂々とたっている、そんな情景が浮かぶようです。
ところが、芭蕉が曾良にあてた書簡によれば、この日、箱根は雨で三島へくだるのも苦労した、というようなことが書かれているのです。この句は雨で富士山が見えない中、芭蕉が心の中に思い描いた風景なのでしょうか。それとも、雨の合間に見れた風景なのでしょうか。そこは謎です。
ですが、もし芭蕉がもうここには来られないとなんとなく悟っていたとすれば、最後に見ておきたかった風景として想像で描いたとしてもおかしくはないと思います。
富士山の句を多く詠んだ芭蕉
芭蕉は上記した五月富士の句の他にも、いくつか富士山を題材にした句を詠んでいます。「富士の風や扇にのせて江戸土産」や「一尾根はしぐるる雲か不二の雪」、「富士の山蚤が茶臼の覆かな」などがありますが、特に有名とされているのは「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき」です。こちらは「野ざらし紀行」におさめられている句で箱根の関所を超えるときに詠まれたものですが、霧がかって富士山が見えないのにそれを「おもしろき」として詠んでいるところに味があるとされています。
わたしたちも、たとえば新幹線などで富士山の見えるスポットに差し掛かったときに、その日天気がよくて富士山がとても綺麗に見えた日には「今日はいいことがあるかもしれない」あるいは「とてもラッキーだった」と思ったりしますが、たまたま天気が悪く、見えなかったときにはがっかりする気持ちが起きてしまうものですよね。それでもその霧や雲の向こうに、富士山の姿を想像したりするのではないでしょうか。
芭蕉もまさにそんな気持ちを抱いたのではと思います。昔も今も、そして現代にも受け継がれている偉大な俳人と言われる人と今を生きるわたしたち、抱く感慨というのはあまり変わらないのかなと思うとなんとなく芭蕉が身近に感じられる気もします。
また、河口湖の産屋ヶ崎というところに「雲霧暫時百景をつくしけり」の句碑があります。こちらは、「野ざらし紀行」の終盤、産屋ヶ崎を訪れた際に、ここから見た富士山の情景を詠んだものとされています。このときの富士山も霧や雲に覆われていたのですね。それでも芭蕉はその中に「百景」を見た、それを歌に表しています。
天気がいいときの富士山ばかりではなく、自然の中にあるからこそさまざまな表情を見せる、そこに魅力があるのでしょう。そして、だからこそ偉大な俳人の心をも動かすのでしょう。
富士山は万葉集から登場する
ところで、富士山という言葉は古くは万葉集から登場することがわかっています。新元号「令和」で今ひとたび注目の集まっている万葉集ですが、その中に、富士山を詠んだ句は11首ある、とされています。百人一首などでおなじみ、山部赤人の詠んだ「田子の浦~不尽の高嶺に雪は降りける」は有名ですね。残念ながら、調べた中に「五月富士」は登場していないのですが、古くから富士山というものは人の心を惹くものであったことがわかります。
近代から現代に入ると、五月富士を季語として詠まれた俳句は多くあります。あげていくとキリはありませんが、どの句を見ても初夏の富士山の情景が目に浮かぶようで、鮮やかに描写されているものが多いです。
「五月富士」は美しい
最後になりましたが、「五月富士」、初夏の富士山は見どころがたくさんあります。旧暦5月ですから時期としては梅雨に少しかかってしまうかもしれませんからお天気は少し心配ですが、5月下旬の富士山界隈は芝桜や茶畑など、富士山とのコントラストが大変美しいです。芭蕉らが五月富士と詠んだときはこの風景はどうだったのだろうと思いを馳せながら五月富士を眺めるのもいいかもしれませんね。また、そこで「五月富士」を季語に是非、一句、詠んでみてはいかがでしょうか。
まとめ
今回は「五月富士」について、言葉の意味、いつの季語かなどをまとめた他、五月富士をつかった俳句のご紹介、そして五月富士を季語にした俳句の中でも芭蕉の句に特にスポットをあててまとめました。時代は移りかわっても富士山は変わらず同じ場所にたち、人々に感動を与えてきたのだなということがさまざまな俳句から伝わってきました。芭蕉が見た五月富士はあいにく雨の日だったようですが、晴れた初夏の日に「五月富士」を眺めに行くのも一興、かもしれません。