山王祭という名前を聞いたことがある人は決して少なくないでしょう。それもそのはずで、山王祭という名前の祭りは一つではないからです。
なぜ山王祭という名前がついたのか、なぜ同じ名前の祭りが存在するのか、気になっている人も多いでしょう。
また、どの山王祭を見に行けばよいのか迷う人もいることでしょう。
今回は山王祭について解説します。
祭りの見どころはもちろんですが、歴史についても説明しますので、きっと見物するときに役に立ちますよ。
山王祭とは?その歴史と同じ名前の祭りができた理由!
山王祭とは全国の日吉、日枝神社の祭りのことです。
日吉大社は古くは「ひえ」と読み、「日枝」と書いたこともありました。
現在の滋賀県大津市に鎮座する日吉大社は全国の日吉、日枝神社の総本社になります。
この日吉大社の祭神は、もともと大山咋神(おおやまくいのかみ)でしたが、後から大物主神を勧請しました。
大山咋神は大山に杭を打つ神、つまり大きな山を所有する神様という意味があります。
大物主神は大国主神に協力した神様とも、また大国主神の別名ともいわれています。
どちらの神様も農耕を司る神様ですが、山王というのはこの二柱の神様の総称で、日吉大社への信仰は山王信仰と呼ばれました。日吉、日枝神社の祭りが山王祭という名前になったのも当然のことだったのです。
現在、滋賀県大津市の日吉大社、富山県富山市の日枝神社、岐阜県高山市の日枝神社、そして東京都千代田区の日枝神社の4つで行われているのが代表的な山王祭です。
どれを見物するか迷うところですが、最初は東京都千代田区の赤坂山王日枝神社の山王祭をおすすめします。
赤坂山王日枝神社の山王祭は古くから人々に親しまれてきました。
江戸時代には江戸三大祭の一つに数えられただけではなく、由緒ある京都の祇園祭や大阪の天神祭とともに日本三大祭の一つといわれていたのです。
山王祭には存続の危機もありましたが、地元の氏子のみなさんの尽力により今まで守り抜かれて来ました。山王祭を見ていると、江戸時代の人々の気持ちが現代の人の中にもきちんと生きているのを感じます。江戸時代は私たちの生きている今とつながっていることを実感できます。
また山王祭では1つの祭りで、神幸祭と町神輿渡御の2つのまったく違う魅力を楽しむことができます。
東京の山王祭!明と暗の歴史!それでも祭りは守られた!
赤坂山王日枝神社は江戸城ができたときに一時城内に移築されたことが縁になり、徳川家の産土神と考えられるようになりました。将軍の生まれた場所を守ってくれる神様ですから、その祭りも将軍家により保護されたのです。
1615年には祭りの山車や神輿が江戸城内に入り、将軍が上覧することを許されました。
将軍がご覧になる祭りのため、祭祀に必要なものや費用・人員などは幕府が調達するようになり、天下祭と呼ばれるようになりました。
江戸後期には神輿3基、山車60台という豪華絢爛な行列が出現するようになり、旧暦の6月15日に行われていた山王祭は、江戸を代表する夏祭りになりました。
明治に入り、江戸幕府がなくなったため、天下祭としての意義を失った山王祭は衰退しました。
東京の街を市電が走るようになり、その電線に引っかかるために、背の高い山車が運行できなくなったことも影響しました。山車を維持していくためにかかる費用が町の負担になったことも原因の1つといわれています。
昭和に入っても山王祭の苦難は続きます。
昭和12年には日中戦争の激化で祭りが中断され、その後の東京大空襲では神社が消失してしまいました。
昭和27年には祭りが復活し、現在に至っていますが、歴史を見ると多くの人々の尽力がなければ、山王祭は今まで続いていなかったことが理解できます。
多くの人の手で守られてきた天下祭をぜひ一度は見てみたいですね。
現在の山王祭!まるでタイムスリップ?見どころは神幸祭!
現在の山王祭は隔年の6月中旬の日曜日を中心に本祭が行われています。
隔年になっているのは、神田祭と1年おきに本祭が行われるためです(西暦偶数年が山王祭開催年)。かつての日枝神社の氏子は神田明神の氏子も兼ねていることが多かったため、毎年本祭りをしていては出費がかさんで大変だったというのが隔年になった理由といわれています。
現在の山王祭では、主な見どころは神幸祭と町神輿の渡御です。
神幸祭は、東京の中心地、日本橋、京橋、銀座、新橋などの氏子区域を500人もの行列が練り歩きます。
行列は300mの長さになるそうですから、その規模の大きさがわかりますね。
御鳳輦2基、宮神輿1基、山車5基に、王朝装束に身を包んだ総代役員や氏子青年がお供をします。かつて江戸城内に入ったことから、現在も皇居坂下門で駐輦祭を行い、宮司以下の役員が宮内庁に御札の献上を行います(神符献上)。
神幸祭で巡行する距離は23kmです。ずいぶん長距離ですが、行列が巡行しているのは外堀通りの内側、かつては江戸城内だったところです。こんなことも知っていると、神幸祭を見物するのが楽しくなりますね。
そうはいっても、すべてに付き合っていては疲れてしまいますから、ポイントを絞って見物するとよいでしょう。
人気があるのは東京駅と皇居を結ぶ行幸通りです。江戸と明治の象徴をつなぐ通りで、王朝装束の行列が通るのを見ているとまるでタイムスリップをしたような気持ちになれます。また、銀座の中央通りで見物するのも人気が高いようです。
行列の後方には山車がついてきますが、干支山車や花山車などは可愛らしく、子どもでも十分楽しめるでしょう。
今では神幸祭の行列の位置がリアルタイムでわかるアプリがあります。こういったものを賢く利用しながら、山王祭を楽しんでくださいね。
氏子のパワーが炸裂!町神輿渡御は見逃せない!
町神輿の渡御で盛り上がるのは、下町連合渡御です。
赤坂山王日枝神社の氏子区域はとても広く、上町、中町、下町の3つの区域に分けられています。
日本橋、京橋、八丁堀、茅場町で構成されている下町連合が銀座の中央通りで神輿の渡御を行います。
かつては各町で神輿を持っており、町ごとに渡御を行っていましたが、少子化のために担ぎ手の数が減ってしまいました。
担ぎ手の取り合いも起こるようになり、平成に入ってから徐々に合同で神輿の渡御を行うことが増えていき、平成18年には今のスタイルで連合渡御が行われるようになりました。
参加する神輿の数は17基(平成30年)ですが、それぞれに200人から300人の担ぎ手が付くため、参加者の合計は3千人といわれています。東京都心にこの人数が出現して神輿を担ぐと考えると、それだけで気持ちが盛り上がってきますね。
スタート地点の京橋や日本橋高島屋前、日本橋の橋上はそれぞれ見どころとされています。
京橋での神輿が勢揃いしている様子、百貨店としては初めて国指定の重要文化財になった日本橋高島屋の重厚な西洋建築と神輿のコントラスト、そして日本橋の上で担ぎ手たちにより高々と神輿が掲げられる(これを指すといいます)様子は山王祭を見物するなら、必ず抑えておきたいポイントです。
町神輿を出すためには、多くの人の労力が必要です。
迫力のある下町連合渡御も、もとは担ぎ手の減少から行われるようになりました。
山王祭の歴史がこれからも続いていくことを願わずにはいられません。
見物する私たちも、しっかりと町神輿の渡御を見届けたいですね。
誰でも必ず楽しめる?山王祭の行事の数々!
山王祭の大きな見どころは神幸祭と町神輿の渡御ですが、ほかにも様々な行事が行われていることが山王祭の魅力です。
稚児行列では可愛い稚児装束に身を包んだ子どもたちが茅の輪くぐりを行い、お祓いを受けて身も心も清らかになり、健やかな成長を祈念されます。
少子化が進む現代において、お稚児さんの姿を見ることでこの上ない幸せを感じることができます。
山王祭では納涼盆踊りが行われることでも有名です。6月中旬の盆踊りはかなり早い開催です。
テントの中にやぐらを立てるため、雨天決行のこの盆踊りは、近所の人々も楽しみにしているそうです。
6月16日には和菓子の祭り、山王嘉祥祭が行われます。
これは平安時代発祥の16種の菓子を供えて、疫病退散を願った行事が由来だといわれています。
江戸時代には、江戸城内で武士たちが将軍家より嘉祥菓子をいただいたそうです。
山王祭期間中の6月16日が嘉祥の日ということで、東京和菓子協会の技術者が神前で和菓子を作り奉納します。
普段は中々見られない伝統の技を楽しむまたとないチャンスですね。
どんな立場の人でも楽しめる懐の深さが、赤坂山王日枝神社の山王祭にはあるようです。
ぜひ、自分なりの楽しみ方を見つけてくださいね。
まとめ
今回は山王祭について解説しました。なぜ日本には山王祭が複数あるのかという疑問から、赤坂山王日枝神社の山王祭の見どころまでを解説しました。
この山王祭は近隣の祭りにも大きな影響を与えたそうですから、ぜひ1度は見物したいですね。都心の祭りのために、人混みは覚悟しなければなりませんが、交通の便がよいのは嬉しいポイントです。
繰り返しになりますが、赤坂山王日枝神社の山王祭(本祭)は1年おきの開催になりますから、出かける際は日程をよく確認してください。また6月中旬という時期は湿度や気温が高くなります。都心ということもあり、熱中症の心配が大きくなります。
楽しい祭り見物のためにも、飲み物や保冷剤を持参するなど、十分注意をして出かけてください。