蚕という虫をご存知ですか?
蚕は昔から織物の材料として日本の工業を大きく支えた特別な虫です。今でも絹というと肌触りの良い高級な布地のイメージが強いですよね。「絹のような肌」というように、絹が比喩表現で使われる時、悪い意味になることはありません。
それでは、絹はどうして高級品として扱われるようになったのでしょうか?
今回は、蚕が絹になるまでにはどのような工程を辿るのか、絹にはどのような歴史があるのかなど、「蚕」について徹底的に解説します。
蚕はどんな生き物?
まず、蚕はどのような生き物なのかについてご紹介します。
「蚕」の正式な和名「かいこが」です。「かいこ」というのは「かいこが」の幼虫という意味で使われている呼び方ですが、蚕はほとんど成虫になるまえに加工されてしまうため、「かいこ」という呼び方のほうが有名になっています。
蝶や蛾と同じく、幼虫から蛹になり、成虫になると全く違う姿に変態する生き物です。
名前の由来は諸説ありますが、元々「コ」と呼ばれていた昆虫を、家畜として飼い始めたため「飼いコ」と呼ばれ始めたという説が有力です。
また、神様が生み出した虫として「神蚕(かみこ)」と呼ばれていたものがなまって「かいこ」になったとも言われています。
蚕の主食は桑の葉です。桑の葉は春から秋にかけてであればどの季節でも葉を生い茂らせてくれる木で、それぞれいつの葉で育てるかによって「春蚕」「夏蚕」「秋蚕」と区別して呼ばれることもあります。
蚕は桑の葉のみで育つため、蚕を育てている家の近くには桑畑があったり、蚕のために桑を育てる家もありました。現在は、蚕の餌にするために、数種類の葉を一気につける桑も品種改良で作られています。
蚕が盛んに育てられるのは5月頃、春の季節です。
古代中国で考案された「七十二候」という季節の数え方では、5月20日から5月25日くらいまでの季節を指して、「蚕起きて桑を食む」と言われます。
これは、そのまま「蚕が起きて桑の葉を食べて育つ季節」と言う意味で、中国のみならず、日本でも季節を表す時にこの表現が使われました。
中国では絹織物が貿易の中心となっており、それは中国と地中海近郊諸国を繋いだ交易路を「シルクロード」と呼ぶことからも伺えます。
日本でも一時期はどの農家も蚕を飼って盛んに絹を作っていた歴史があります。
日本でも違和感なく使われている通り、この季節になると蚕が育てられ始める光景が日本の風景だったのでしょう。
成虫になった蚕はどうなるの?やり過ぎなほど最適化された家畜
蚕は5000年前に中国で飼われ始め、「世界で初めてできた家畜」とも言われるほど、長い歴史の中で人の生活を支えてきました。
そのため、人が飼いやすいように品種改良され、今では自然界で野生として生きていくことができない唯一の動物と言われています。
- 体の色が真っ白で自然界に居ると目立つ
- 桑の葉しか食べない
- 餌がなくなってもその場から動かない
- 力が弱く、樹木にくっついていても、風が少し吹くだけで簡単に地面に落ちてしまう
このように、野生では到底生きていけないような生き物になってしまっているんです。
蚕は、人間が管理しないといとも簡単に絶滅してしまう危うい生き物なんですね。
幼虫の時は弱くても、成虫になればしっかり生きていけるようになるのでは?と期待してしまいますが、蚕は成虫になっても相変わらず、自力で生きていく力がありません。
蚕の成虫は、蝶や蛾のように羽が生えて羽ばたいたりはしますが、体が大きい上に飛ぶための筋肉が発達していないせいで、せっかくの羽もほとんど飛ぶところまではいきません。
しかも、成虫になった蚕は、口が退化してしまって存在しないので、なにも食べることができません。
そのため、蚕は約500個の卵を産み付けたあとは一週間ほどで死んでしまいます。
最初から最後まで人の手を加えないと生き延びられない状態は、家畜として望まれたからとは言えあまりにも最適化されていて憐れにも思えてきてしまいますね。
蚕の「繭」が絹糸になるまで
蚕と言えばやっぱり絹の糸ですよね。
蚕がどのようにして今のような生態になっていったのかは実はわかっていないのですが、さなぎになる時に繭を作るべく吐き出す糸は、1200mほどの長さがあります。
繭の糸は「フィラメント繊維」と呼ばれる長い繊維になっていて、天然で取れる繊維の中でフィラメント繊維は蚕の繭糸だけです。科学が発達した現代でこそフィラメント繊維は珍しくありませんが、天然で取れる唯一のフィラメント繊維ということは、現代以上に昔の絹糸は貴重なものだったのでしょう。
それでは、この糸はどのような過程を経て加工されるのでしょうか?
もちろん、さなぎになるために吐き出した糸なので、繭の間はしっかりとくっついていて、無理に剥がそうとすると傷んでしまいます。
そのため、繭から糸を取るために、まずは繭を茹でます。
繭の糸は「フィブロイン」という成分と、「セリシン」という成分でできています。フィブロインというのは繭糸そのもので、それをセリシンが覆うことで、周りの糸とくっつき繭としてまとまっています。接着剤の役割なんですね。
この「セリシン」という成分は、熱とアルカリに弱く、熱湯で茹でたり、アルカリ性の水に沈めることで粘着が弱まります。
茹でて繭の接着が弱くなったところで、糸口を探して繭を解いていきます。
この時、もちろん中の蛹は死んでしまっているのですが、中の死骸も畑の肥料として利用するなど、無駄にされることは少なかったそうです。
日本で養蚕をしていた家庭には農家が多く、蚕の糸を紡ぐのは主に女性の仕事でした。
中の蛹も肥料になるということは、農家にとっては余すことなくすべて大切に使うことができる貴重な家畜ということですね。
糸の貴重さもさることながら、蚕の扱いやすさや無駄の無さは、日本や中国で盛んに養殖されていたことにも頷けます。
蚕から取れる様々な糸
絹糸は蚕の糸を取り出して使う場合、蛹の蚕をそのまま茹でる方法が有名ですが、例えば成虫が孵ったあとの破れた繭も糸として使えるということはご存知ですか?
繭の状態によって、絹糸は様々な種類に分けられます。
ここからは、その種類を見ていきましょう。
・生糸
最もきれいに取れる糸です。繭の糸口から糸を回収して、その糸を何本か撚り合わせて作ります。
・玉糸
1頭の蚕が1つの繭を作ることが一般的ですが、ごく稀に2頭で大きな繭を作る場合があります。
この繭から取れる糸は、2つの糸がほつれた部分があったりするので、太さが均一ではありません。そのため、糸にすると節が多くなり、不規則な糸になります。これは生糸とは区別され、「玉糸」と呼ばれます。
不規則な糸なので価値が下がるかと思いきや、この不規則さが味になり、織物によく使われる糸でもあります。
・紬糸
病気の蚕が入っていて汚れてしまった繭や、成虫が破ってしまった繭、害虫に穴を開けられてしまった繭など、生糸として使うことができなくなった繭をまとめてアルカリ液に浸して解し、綿状にしたものを「真綿」と呼びます。
真綿はそれだけでも布団の綿など、防寒のために利用されますが、これを指で撚り合わせて糸にしたものを「紬糸」と呼びます。
紬糸は丈夫で暖かいことが特徴で、紬織物の材料に使われます。
絹(シルク)が上質な布と言われるわけ
絹はもちろん綺麗ですが、それだけで高級になっているわけではありません。
絹織物には様々な良いところがあります。それでは、絹織物の特性について見ていきましょう。
・薄手でも丈夫
絹は目が細かく、薄くて艷やかな織物が多いですが、実は絹糸は同じ太さの鉄よりも強度があります。
そのため、繊維の中でもかなり丈夫で、引っ張ったりしても破損しにくいという特徴を持っています。
・紫外線対策ができる
絹糸は蛹を紫外線から守るために、紫外線を吸収する効果を持っています。
そのため、絹織物は紫外線を通しにくく、カット率はおよそ90%と天然の素材では群を抜いた性能です。
・夏は涼しく、冬はあたたかい
絹の繊維はたくさんの穴が空いた構造になっていて、空気をくわえ込みやすい性質を持っています。
そのため、繊維の外に熱が伝わりにくくなり、夏は熱くならず、冬はぬくもりを逃しません。
・静電気がおこりにくい
絹の繊維は水分をよく吸うため、乾燥しにくいという特徴を持っています。
そのため、冬場の乾いた空気の中であっても、他の衣類に比べると、静電気が起こりにくくなります。
まとめ
5000年も前から、季節を言い表す言葉に使われるほど身近で人の営みを支え続けてきた蚕ですが、実は蚕自身、人間が居なければ生き延びることができないほど脆弱な生き物であります。
蚕が生まれてから死ぬまでで、およそ一ヶ月半ほど。その生命も、多くは絹糸を紡ぐ段階で熱湯に茹でられて散っていきます。
また、その糸は命を守るために多くの機能を有していて、絹糸は触り心地や光沢だけではなく、紫外線をカットしたり、丈夫であったりと様々な効果を持った優秀な繊維です。
科学の力で様々な繊維が生み出されてもなお、価値を失わない美しい絹。
それを生み出す蚕は、これからも人の生活を支えてくれるでしょう。