「人間の煩悩」という言葉を良く耳にします。
煩悩を漢字で見ると、「煩わしく悩ませるもの」と書かれていますね。
わかりやすく言うと、人の「欲」のことを表現しています。
人が生きている以上、様々な欲が次から次へと出てきてしまい、時には我慢をしないといけないこともありますよね。
本当は仕事や家事をしないといけないのに、テレビが見たいなども煩悩の1つです。
そんな煩悩が108個もあると知ると、驚いてしまいませんか?
実は仏教と関係が深い煩悩について、こちらでは掘り下げて解説していきます。
煩悩の意味とは?
「煩悩のかたまり」などという表現を、聞いたことはありませんか? 人は生れ落ちたその日から、あらゆる煩悩と共に生きていきます。
赤ん坊のころはオムツを変えて欲しい、食事が欲しい、そんな生理的欲求だけで済みましたが、段々と成長するにつれ感情も成長していきます。
その中であれがしたい、これがしたいと思うことも多くなるでしょう。
時には理性が効かないほど欲しいものや、やってみたい事も出てくるはずです。
煩悩の意味の解釈は様々ではありますが、「やらなくても良い余計な考え」とも言えますね。
煩悩という言葉とセットで思い浮かぶのが、仏教ではないでしょうか。
悟りの境地に達するには、頭の中を空っぽにして「無」の状態にしなければならないとされています。
かつて仏陀が悟りを開いた時も、一切の煩悩を追い払ったと言われていますね。
このように仏門に入る者は、仏様の元で自分の私利私欲を捨てなければならないのです。
「全ての物が欲しい」、「何でもしたい」などという人のことを「あの人は貪欲だ」などと揶揄することがありますが、
その言葉こそまさに「煩悩のかたまり」という言葉に置き換えられるでしょう。
仏教では煩悩があることにより、苦しみが与えられるとの見解があります。
煩悩のせいで人は苦しむ。
確かに要らない欲求があることで、「愛されたいのに愛されない」「欲しいのに手に入らない」「やりたいのにすることができない」
そのことが悩みとなり、人は苦しむのでしょう。
煩悩とは人間が生きていく上で自然に出てくる欲求のことであり、日常の中で些細な悩みから大きな悩みのほとんどを構成するものであると言っても良いですね。
煩悩の数と除夜の鐘
除夜の鐘をついたことはありますか?
大晦日の11時45分を過ぎたあたりから、近くのお寺などで「ゴーン」という大きな鐘の音が鳴るのを耳にしたことがある方もいることでしょう。
除夜の鐘とは大晦日から翌年にかけて、108回鐘をつくことをいいます。
除夜の「徐」という字には、古きものを捨てるという意味があります。
なぜ108回なのかということですが、この108回こそが煩悩の数なのです。
108個の煩悩を追い払うために、除夜の鐘をつくのだとされているのです。
ではなぜ、108個も煩悩があるとされているのでしょうか? もともと108という数が出来たのは、古来の中国が由来でした。
中国には季節を大事にする傾向があり、季節を細かく表現した七十二候、二十四節気、そして一年の12ヵ月。
これを全て足して見ると、実は108という数になります。
または煩悩は人を悩ませることで四苦八苦するという意味合いをかね、4×9と8×9を足して108とする説も。
どの様に考えても、108という数字が仏教的に煩悩の数を表すと考えて良さそうですね。
また除夜の鐘のつき方ですが、大晦日の日の23時59分までに107回をついておき、年が変わり次第1回をつくというのが正式なつき方です。
ですが最近は観光客に除夜の鐘をつかせてくれたり、108回にこだわらず除夜の鐘を鳴らす寺もあります。
もしも興味を持った方や、お子さんをはじめ経験をさせたいなどという方は、是非チェックしてみるのも良いですね。
煩悩の出所はどこなの?
ではそもそも煩悩とはどうして生まれてしまうのでしょうか? もちろん感情や育った来た家庭環境、性格なども関係してくるでしょう。
ですが仏教的には、2つの事柄が煩悩を生み出してしまうと言われています。
それが「無明」と「三毒」というものになります。
無明とは明かり(灯り)が無い状態のことを指しているのですが、この場合の明かりとは電気の意味ではなく「人を導く光」という意味のこと。
人間は生きている道の中で明かりを見失うと、悩み苦しみます。
良く言われる表現で「お先真っ暗」という言葉がありますが、まさにこの意味ですね。
私利私欲にまみれた人間は真実にたどり着けず、ネガティブな発想に飲み込まれてしまいます。
その欲から抜け出す方法は、知恵をつけること。
知恵とは勉強という意味ではなく、「理にかなっているか」「道徳的か」などを自分で考え、それに対し正しい行動ができるかどうかということでしょう。
この知恵がないと、人は欲にもがき苦しむことになってしまうのです。
そして煩悩が生まれる原因のもう1つが「三毒」です。
三毒とは、人間にとって3つの生きる邪魔になる毒。
3つは「貪欲」「瞋恚(しんに)」「愚痴」のlことを指します。
「貪欲」とは理性がきかずとめることができない欲求の事、「瞋恚」とは感情を抑える事ができない怒り、「愚痴」とは真実を追求しないで愚かな素振りを見せる事。
実は人間の108個の煩悩は無明と三毒という、たった2つの原因だけで出来ているのです。
なぜそこから108個も生まれてしまうのでしょうか?そちらも気になるところですよね。
煩悩の正体とは?
煩悩が生まれてしまう原因として、無明と三毒をあげましたが、さらに細かく正体を探っていきましょう。
人間には聴覚・嗅覚・視覚・味覚・触覚という五感と呼ばれているものがあります。
この五感が優れている人を「感のするどい人」などと呼ぶこともありますね。
さらにここに人間の精神的な部分、つまり「心」を足した「意識」を足し六根と言います。
この六根が様々な作用を働かせ、人間は色を分けたり、味わい深さを感じたりもするのです。
それをまとめて「六塵」と呼びます。
人間は六塵を知ると、意識的・無意識的どちらにしても、善・悪・平という分類を始めます。
そしてそこでできた感情は、染・浄の2つに分けることができ、人々は六塵でできた3つの感情が汚いものなのか綺麗なものなのか二者選択をするのです。
さらにその感情を過去や現在・未来にさらに置き換えると、段々と人の感情が出来上がってきます。
この全てのことを数として掛けていきましょう。
六塵と善・悪・平・染・浄・過去・現在・未来で出た数を全てかけてみるのです。
つまり6×3×2×3。
いかがでしょうか、見事108個の煩悩が生まれるのです。
ただこれはあくまで理論上、計算したものです。
また、より精神的なものを題材としている十纏というものも考えられます。
十種類の悪しき感情と、98あると言われている煩悩の数、こちらも合わせると108になりますね。
もちろん人間の感情は文章で説明できるほど簡単なものであるわけではなく、時として計算通りに行くはずもありません。
もしくは後付けで、時代と共に様々な理由が出来あがったのかもしれません。
ですがこれを見ると、確かにそんな気がしてしまうから不思議です。
数珠も108個の玉から出来ていた!
仏教などの行事の際に必要になる数珠。
葬式などの時にも欠かせないアイテムの1つですが、実はこの数珠も108個の玉から作られているのです。
数珠の始まりはインドだと言われており、ある王が心の平穏のために釈迦に言われたとおり108個のムクロジの実を数珠にして身に着けたというのが最初。
数珠自体にも意味があり、ただ紐で通されているわけではありません。
阿弥陀如来を表現した親玉、煩悩・仏の数を表現した主玉、四天王を表現した四点玉、釈迦の有名な十人弟子を表現した弟子玉、弟子玉をとめる露玉、そして菩薩を表現した浄明玉となっています。
しかもこれらの玉を全て繋いでいる紐にも、観音菩薩を表現しているのです。
ただ腕に付ける数珠だからといって、玉をいいくつも繋いでいるわけではないということを覚えておきましょう。
実はあの数珠には中に小さな仏教世界そのものを見出していると言っても良いほど、繊細な意味を持たしています。
ただ実際に108個もの数珠を作ると、とても大きなものになってしまいます。
そんな時は略式として54個、36個などの数珠も作られています。
また常に身に着けていることで紐が切れてしまうこともありますが、これは身代わりともいうべき吉兆。
自分の身に起こる災いを避けてくれているとの考え方をしましょう。
まとめ
こちらでは108個もあると言われている煩悩について、内容や仏教での思考を踏まえて解説してきました。
煩悩とは人間が生きていく上で切っても切れない欲のことではあります。
ですが上手くコントロールすることで、人間付き合いが円滑になったり、勉強に身が入るなどの理由を煩悩に置き換えたのかもしれません。
今一度自分の煩悩について振り返り、本当にしたいことなどの欲を見極めていく機会を作るのも良いですね。