梅の花は好きですか?寒さで体も心も縮こまる冬に、いち早く春の香りを届けてくれる、梅の花が好きだという人はたくさんいることでしょう。
現在花見は桜の花と決まっているようですが、かつては花見といえば梅の花だったのです。
そんな梅の花にちなんだ祭りがあります。
それが京都の北野天満宮で行われる「梅花祭」です。
今回は梅花祭がいつ行われるのか、どんな由来があるのか解説していきたいと思います。
菅原道真公と天満宮、梅の花の関係とは
北野天満宮は、平安時代の中頃に菅原道真公をお祀りしたのが始まりです。
日本中に約1万2千社あるという天満宮・天神社の総本社で、天神信仰が始まった場所でもあります。
道真公は、平安時代の政治家、歌人で豊かな才能を宮中で発揮していました。
しかしその才能が妬まれ、無実の罪で太宰府(現在の福岡県)に左遷されてしまいます。
道真公が失意の内に太宰府で亡くなった後、京都ではさまざまな怪事件が起こり、道真公の祟りであると人々に恐れられました。
祟りを封じ、その霊を慰めるために、道真公は天神様としてお祀りされることになったのです。
道真公は左遷される際に、それまで手塩にかけて育ててきた庭木の梅、松、桜に別れを告げます。
特に梅の花には、こんな和歌を詠んだそうです。
『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』
北野天満宮公式サイトより引用
私がいないからといって、春を忘れてはいけないよ、こんなふうに語りかけるような和歌を贈られたからでしょうか、梅の花は一夜の内に空を飛んで、道真公のいる大宰府に根を降ろしました。
今でも太宰府天満宮の御神木は飛梅で、毎年一番に花を咲かせるそうです。
このように道真公と梅の花には、深い関係があります。
だから、北野天満宮だけでなく、太宰府天満宮も湯島天神も梅の花の名所になっているのです。
「梅花祭」はいつ開催?始まりはいつだった?
「梅花祭」が行われるのは、道真公の命日2月25日です。
900年以上の歴史があるそうですから、梅花祭は平安時代からずっと行われてきたことになります。
この日は神様に供える米を育てる御供田から、お供え用に米が届きます。
その米を蒸して大小2つの台に丸く盛り付けた「大飯(おおばん)」「小飯(こばん)」と、「紙立(こうだて)」という紙の筒に入った玄米に、梅の枝を差したものがお供えになります。
もともと仏教での法要を神道では霊祭と呼びます。
梅花祭でも、お供えをして道真公を偲ぶことが目的です。
大飯と小飯は合わせて4斗(1斗は10升です)もありますが、祭りの後は小さく分けて、参拝者に配られます。
紙立の玄米は、厄除け玄米として授与(神社などでは販売する、といわずにこの言葉を使います)されます。
旧暦で梅花祭が行われていたときには、紙立には菜の花を差していましたが、明治になって新暦が採用されたときに、道真公が梅の花を好んでいたことから、梅の花を指すようになりました。
しかし現在でも祭典を行う神職の方は、みな頭にかぶる烏帽子に菜の花を付けています。
現在でも菜の花を使うのには、由来があります。
梅花祭はかつて「菜種御供(なたねのごく)」と呼ばれていました。
菜種御供はなだめる、に音が似ているために、付けられた名前でした。
神様、つまり失意の内に亡くなった道真公をなだめたい、そんな思いから菜の花が使われるようになったのでしょう。
梅の花を使うようになってからは、「梅花御供(ばいかのごく)」と呼ばれるようになり、それが梅花祭という名前につながったのだと思われます。
「梅花祭」の日には、梅の花を思い切り楽しもう!
梅花祭と同じ日に、上七軒の芸妓さん、舞妓さんたちにより「梅花祭野点大茶湯」が開かれています。
これは豊臣秀吉が北野大茶湯を開いたことが由来となっています。
上七軒は1444年に北野天満宮が一部焼失した際、再建するときの余った材料でお茶屋を建てたことから始まりました。
北野天満宮とは縁のある花街なので、ずっと野点大茶湯での奉仕を続けているのです。
花盛りの梅の下でお茶をいただくだけでも素敵なのに、間近に芸妓さんや舞妓さんが見られるのですから、これは出かけてみたくなりますね。
一足先に身も心も春を感じられそうです。
北野天満宮の梅苑は梅花祭のとき以外も訪れることができます。
2月上旬から3月下旬まで2カ月近くも公開されており、50種類、約1500本の梅が植えられています。
梅にはさまざまな品種があり、品種によって開花時期が違うので、長い期間楽しむことができます。
珍しい品種の「黒梅」(黒ではなくて深い赤です)や、萼の緑色が白い花びらに透けて見えるのが爽やかな「月の桂」など梅のバリエーションの豊かさに感心すること間違いなしです。
梅苑の中には茶店が出ていますので、ゆっくりと寛ぎながら梅を楽しむことができそうです。
北野天満宮・本殿の前に植えられている御神木ももちろん梅の花です。
品種を紅和魂梅(べにわこんばい)といって、あの大宰府に飛んでいった飛梅と同じ品種だそうです。
樹齢は300年ということですが、今でも可憐な八重咲きの紅色の花をたくさんつけます。
御神木も忘れずに見ておきたいですね。
梅の花は見るだけではもったいない!北野天満宮の梅仕事とは
北野天満宮では梅の花を見せるだけでなく、梅仕事も行っています。
天満宮の敷地内で育った梅には天神様のご神徳が宿るといわれているため、毎年大福梅(梅干し)と、招福の梅の枝「思いのまま」を製作しています。
巫女さんたちが脚立に載って、大福梅のための実を採取しているところは、大変珍しい光景です。
その後塩漬け、土用干しを経て最後に包装するまで、丁寧な手作業が続きます。
大福梅は12月13日の事始め(正月準備の始まりの日)から北野天満宮で授与されます。
平安時代の帝は、梅入りのお茶を飲んで、病を治したそうです。
私たちも元旦に飲む白湯やお茶にこの大福梅を入れて、1年の健康と平安を祈りましょう。
思いのままは選定のときに出る梅枝(ずばい)を利用したものです。
梅枝に厄除けひょうたんを付けてあり、見るからにおめでたい感じがします。
ひょうたんの中には梅花祭の厄除け玄米が入っていて、ご飯と一緒に炊いて食べることで、1年の健康と平安を祈ります。
この思いのままは元旦の0時より授与されます。
手に入れることができれば、よい年になりそうですね。
梅をただ眺めるだけでなく、こうして利用しているのを見ていると、梅と天満宮の深いつながりを感じます。
北野天満宮には、梅以外にも見どころが!
梅と天満宮の深いつながりを感じると、どうしても菅原道真公に思いを馳せてしまいます。
そんな人はぜひ北野天満宮の敷地内にある宝物殿に足を運んでください。
1219年に作成された「北野天神縁起絵巻 承久本」は全部で9巻あり、道真公の生涯や北野天満宮の創建について描かれています。
絵巻ですから、古典が苦手でも大丈夫です。
宮中に落雷があった場面(道真公の祟りといわれていました)には、雷神が描かれていて、昔の人のセンスを感じます。
自分が解明できない不可思議なことを、こうして絵で表すことができる高度なセンスをぜひ、味わってください。
道真公が船で大宰府に旅立つ場面は、見ているとちょっとしんみりしそうです。
神様は自分と遠い存在だと思っていましたが、こんなふうに絵巻を見て、理不尽な仕打ちに耐えていた道真公の姿を想像していると、たとえ神様になっていても、グッと親しく感じられてくるから不思議です。
宝物殿は毎月25日に開館します。
梅や紅葉の季節にも開館しているそうですから、梅花祭のときの楽しみが増えそうですね。
道真公の命日は2月25日ですが、誕生日は6月25日です。
25日は道真公ゆかりの日として、宝物殿が開館するだけでなく、縁日が立つ日でもあります。
参道には6時から21時頃まで屋台が並び、日没からはライトアップもされます。
350の石灯籠と250の吊灯籠に火が灯ると、あたりは幻想的な雰囲気へと変わります。
派手な今どきのライトアップではありませんが、その分まるで過去にタイムスリップしたような不思議な気分が味わえるでしょう。
北野天満宮は梅以外にも、見どころがたくさんあることがわかっていただけたと思います。
まとめ
北野天満宮の梅花祭について、いつ開催されるのか、そしてどんな由来があるのか解説してきました。
菅原道真公と梅の花の深いつながりをわかっていただけたと思います。
祟りの伝説があるため、道真公は怖い神様というイメージがありますが、このように梅を愛した優しい人柄だったことが想像できます。
そしてそのつながりを900年以上も大切にしてきた京都の人たちの優しさも、梅花祭から感じることができます。
梅の花の季節には、ぜひ京都の北野天満宮の梅花祭に出かけて、梅の花だけでなく人の優しさも感じてきてください。