今は日本人でも米だけではなく、パンや麺を食べる人が多いでしょう。
もし、米が全く食べられなくなったら私たちは大きなショックを受けるはずです。
米は私たち日本人にとって、ただの主食ではありません。
その証拠に、今日本に伝わっている祭りの多くは稲作に関係しています。
日本全国で初夏に行われる御田植神事はその代表です。
中でも大阪市住吉区の住吉大社で行われる御田植神事は、昔のままの姿を残しているそうです。
これを見れば、御田植神事とはどんなものなのか理解できるのです。
今回は住吉大社の御田植神事について、いつ頃から行われてきたのか、どんな由来があるのか、解説したいと思います。
「御田植神事」はいつ始まったか、そして「住吉大社」の由来とは
住吉大社は神功皇后にゆかりのある神社です。
神功皇后は、急死した夫に変わって妊娠中ながら朝鮮半島に出兵した気丈な女性として有名です。
無事朝鮮半島から凱旋帰国した際、船を守ってくれた神々をいくつかの神社に祀りました。
そのうちの1つが住吉大社で、海の神様を祀ってあるため、航海安全にご利益があるそうです。
住吉大社に神様をお祀りしたときに、神様にお供えする米を作るための御田が定められました。
その御田で、神功皇后が連れてきた植女が神様のために奉仕作業をしたことが、御田植神事の由来です。
神功皇后が生きていたのは、2~3世紀のことですから、住吉大社の御田植神事には、歴史があるのがわかりますね。
鎌倉時代にはすでに猿楽や田楽などが行われていたことが記録に残されており、大きな行事であったことがわかります。
鎌倉幕府の権力者、北条高時は田楽に夢中になったあまり、カラス天狗に化かされたと伝わっています。
武将たちの間でも、猿楽や田楽は人気が高かったのです。
きっと住吉大社の御田植神事の人気も高かったことでしょう。
住吉大社の「御田植神事」はいつ行われる?どんなことをするの?
現在住吉大社の御田植神事は、6月14日の13時から行われます。
この御田植神事には、多くの女性が関わっています。
早苗を捧げ持つ植女、植女のお供をする稚児、早苗を受け取って実際に田植えをする替植女、そして神楽を奉納する御稔女(みとしめ)たちです。
植女は顔が隠れるほどの、大きな花笠をかぶっています。
花笠は上下に長い形と深い緑色が印象的です。
花笠には綿の花と呼ばれる飾りがついていますが、これは雷除けのお守りとして住吉大社で販売されています。
かつて植女は、新町郭の芸妓が選ばれていたそうです。
花笠のために顔が隠れて見えませんが、現在は上方芸能協会で美しい女性8人が植女に選ばれるそうです。
稚児は本格的な稚児装束を身に着けています。
裾がすぼまった紺色の袴がかわいらしいです。
また髪の長い子を選んだのでしょうか。
みな稚児髷という、頭の上で髪の毛を2つに分けて輪にした髪型にしています。
この髪型のおかげで、より稚児らしく見えるようです。
御稔女は大阪花街連盟で厳正な審査の上、性質も外観も、ともに優れている踊りの名手が選ばれます。
この女性たちが神社での儀式を行い、無事に神事に参加できる資格を得てから、列を作り、御田まで進んでいきます。
御田に到着してからもすぐに田植えができるわけではありません。
神職が田を祓い清めてから、御神水で田を満たし、斎牛という神聖な牛が代掻きを行い、田の土をほぐし、平らにして苗を植えやすくします。
斎牛もきれいに飾りをつけられ(花飾りもついています)、たくさんの声援を浴びる人気者になっていました。
兵庫県三木市で育てられた、但馬黒毛和牛の雌、2歳が斎牛になるそうです。
牛が農作業をする様子は、もう見る機会がありませんから、人々が声援を送るのもわかるような気がします。
これでやっと田植えが始まります。
田植えが始まるのと同時に、田の中に作られた櫓の上でさまざまな芸能が奉納されます。
どれも見たい!「御田植神事」で神様に奉納される芸能の数々!
最初に住吉大社の神楽女8人(八乙女)が奉納する田舞、その後で御稔女が奉納する神田代舞(みとしろまい)が行われます。
頭に菖蒲の花飾りを付けた八乙女が舞うのは、古式に則った神楽です。
退場するときまで一糸乱れぬ揃いようです。
神田代舞は昭和27年に創作されたものだそうです。
龍の冠を付けているため、龍神の舞とも呼ばれます。
これらの舞が奉納されている間、田の中では替植女によって着々と田植えが進められています。
現在替植女を務めるのは、専業農家の人たちだそうです。
本職ではありますが、決して普段はこのような衣装を身に着けて、手で苗を植えることはないでしょう。
慣れない衣装を物ともせずに、田植えをしている姿には感心させられます。
鎧兜を身に付けた侍大将による風流武者行事は、日の丸のついた軍扇を掲げ、月明かりに見立てて威
武を示したものです。
確かに相当軍扇をひらひらさせています。
この後は紅白に分かれた雑兵たちが、棒打ち合戦の演技を見せます。
紅白の雑兵が一対になってお互いが手にしている棒を型通りに打ち付け合います。
棒打ち合戦に参加しているのは、小学生から中学生にかけての男子のようです。
棒打ちがうまい組は、リズミカルな音がしますが、そうでない組は何だかぎこちないのがわかります。
これもご愛嬌でしょう。
おそらく自分のお孫さんが参加しているのでしょう。
お年寄りが「偉いね~、頑張っているね」と声援をかけていたのが印象的でした。
この後は再び女性の出番です。
田植え歌と田植踊が披露されます。
櫓の上には大人の女性が乗っていますが、畦では女の子たちが田植踊を踊ります。
大人と比べるからでしょうか、とても小さくてかわいらしいので、つい顔がほころんでしまいます。
これならきっと田の神様も喜ぶに違いありません。
田植えというのは、腰をかがめたままで行う重労働ですから、このような歌や踊りで気分を盛り上げるのは大切なことだったのでしょう。
また、リズムをつけることで作業がテンポよく進むというメリットもあったようです。
最後には揃いの笠をかぶり、衣装を身に付け、手には住吉大社の団扇を持った女の子たちによる、住吉踊りが奉納されます。
この踊りには神功皇后を歓迎するために住吉の民が踊ったという由来がありますが、毎年見物客の人気が高い踊りです。
体を使って心という字を作る踊りだそうですが、ぴょんぴょん飛び跳ねる振り付けが何ともかわいらしいのが人気の原因でしょう。
団扇には鈴が付けられていて、女の子たちが飛び跳ねる度にかわいらしい音をたてます。
御田植神事ではさまざまな芸能が奉納されますが、太鼓や拍子木でリズムを取る以外は、人の歌声が頼りということが心に残りました。
祭りや神事があると、色々と楽器が欲しくなりますが、最初は手拍子と歌うことが基本だったのだと思い出させてくれるのが、住吉大社の御田植神事なのです。
日本人の原点は田んぼにある?!「御田植神事」が大切なわけとは
日本では、田植えの時期には御田植神事や御田植祭が行われ、田んぼの神様をお迎えして、田植えがうまく行くように、また豊作であるように願います。
このほか稲作に関係ある祭りとして、春には祈年祭(としごいのまつり)、秋には収穫祭が日本全国の神社で行われます。
秋には天皇陛下も宮中で新嘗祭を行い、その年の収穫に感謝して、来年もまた豊作であるように神様に願います。
このような祭りがあることは、日本人の生活が稲作を中心に回っていたからです。
稲が収穫できないことは、即命の危機を意味しました。
日本史を勉強していると、江戸時代になっても稲の不作で大きな飢饉となり、たくさんの命が失われたことがわかります。
日本の神事や祭りの起源を考えるとき、稲作は決して忘れてはならないことです。
こうして守ってきた稲作ですから、私たちの体には米に対する特別な思いが刻まれているのかもしれません。
稲作を守ることは、私たちの命を守ることと同じでした。
米がパンや麺よりも特別な存在になるのは、当然のことだったのです。
パンや麺でお腹は膨れますが、米にはそれ以外の、心まで満たすような何かがあるのかもしれません。
今ではめったに手で田植えをすることはありませんが、御田植神事で本来の苦労を目の当たりにすることで、かつての米に対する気持ちを思い出せるかもしれません。
いつまでも美味しい米が食べられるように、私たちはもっと日本の農業を大切にしなくてはいけません。
こんな思いを抱かせるのが、御田植神事なのです。
まとめ
住吉大社の御田植神事の由来や、いつ頃から行われているのかについて解説しました。
大切な稲作を、楽しく、そして無事に行うために祭りや神事を作ってきた日本人の知恵には感心するばかりですね。
ちなみに御田植神事は、無料で見学することもできますが、拝観料(1000円)を支払うと、テント内で座って見学できます。
植女の花笠についている綿の花のお守りもいただけるそうです。
大阪の6月は、暑さが厳しくなってくる頃です。
無理せずに日陰で座って、伝統芸能の数々を楽しむのもよいのではないでしょうか。
御田植神事は、日本人なら1度は見ておきたい行事です。
1度御田植神事を目にしたら、次には収穫祭(住吉大社なら新嘗祭)、祈年祭と次々に見たくなるかもしれませんよ。