高岡御車山祭、と聞いてどんなお祭りを思い浮かべますか?
高岡は富山県高岡市のことですが、御車山が何か知っている人はあまりいないでしょう。
実は御車山には古い歴史があり、高岡の街の人たちが大切に現代まで伝えてきました。
高岡御車山祭がいつ始まったのか、その由来について、また現在の祭りの様子について解説していきます。
高岡御車山祭が始まった時期、由来は御所車!
高岡御車山祭とは、富山県高岡市の高岡關野神社の春季例祭で、毎年5月1日に行われています。
御車山は祭りのときに町内を巡行する曳山(山車、屋台ともいう)のことです。
曳山は神輿と同じく、神様が天から降りてくる拠り所になると考えられています。
祭りのときに曳山や神輿は、人間と神様がともに街をまわるために登場するのです。
御車山と他の地域の曳山との違いはその形です。
古典文学によく登場する牛車がありますが、御車山の形は牛車の形で、上には大きな飾りがついています。
飾りまで含めると御車山の高さは8m以上あり、大変見応えがあります。
牛車の俗称を御所車といいますから、御車山の名前はそこから付いたものだと考えられます。
御車山は、車の前後に伸びた轅(ながえ)に横木を渡したものが持ち手で、それを人間が引っ張って移動させます。
まさに御所車と同じ様式です。
普通、曳山は曳き綱を引いて移動させるので、これも御車山の特徴の1つといえます。
そんな変わった曳山・御車山が生まれたのには、きちんとした由来があります。
1588年に豊臣秀吉が当時の天皇を自分の城に迎えたときに使用した御所車を
加賀藩主の祖である前田利家が頂戴しました。
それを引き継いだ2代目の前田利長が高岡に城を築いて町を開いたときに、
城下の町民に与えたのです。
これが1609年のことです。
御所車を与えられた城下の10町は山町と呼ばれ、代々御所車に手を加えながら現代まで受け継いできました。
御車山の装飾には、江戸時代の名工の作品が見られます。
装飾金具を作る鋳物の技術や、木の部分にある彫刻の技術、隅々まで施された漆塗りの技術など職人の技術の粋が集まっているのが御車山なのです。
御車山は全部で7台あり、勢揃いすると迫力満点です。
高岡御車山祭は、御車山を引き継いできた町民のパワーを感じられるお祭りなのです。
ほかの地域とは違う!御車山の特徴とは
高岡の御車山は飾り山(上の部分・ここに御神体を飾ります)と地山(下の部分・幕が貼られて、中に囃子方が数人入ります)の2層構造になっています。
御車山には高い柱(心柱)が立っており、この先には鉾留が付いています。
山によって付いている鉾留が違いますが、これは神様が山に降りてくる際の目印にするために違うといわれています。
鉾留には胡蝶や鳳凰などの形があり、神様だけでなく人間にも非常にわかりやすくなっています。
鉾留に注目して御車山を鑑賞するのも楽しいのではないでしょうか。
心柱の周りには半円状の竹籠が付いていて、それに添って三色の菊の造花が付けられています。
この造花はどの山にも付けられていて、遠くから眺めたときにも愛らしく、とてもキレイです。
からくり人形が乗っている御車山もあり、近くから眺めるときの楽しみになると思います。
今ではもっと複雑な動きをするロボットもいますが、単純な動きのからくり人形の方がなぜか人の心を引きつけるようです。
山車が出るお祭りは荒々しいものも多いですが、高岡では静かに進行していくので、じっくりと御車山を眺められることでしょう。
車輪1つでも、漆を塗り、様々な模様の彫金細工を施した精巧な作品ですから、見飽きることはありません。
山に付き添う町衆が紋付・袴に、麻裃を身に付け、一文字笠という平らな笠をかぶっているのも、他のお祭りとはちょっと違うな、と感じさせます。
本祭5月1日の12時頃に、高岡市内の中心地・片原町交差点に7基の御車山が勢揃いします。
勢揃いの迫力を思う存分楽しむのもよいですし、1基ずつじっくり眺めたいなら、前日(4月29日、または30日)の宵祭がお勧めです。
1時間ほど歩くだけで、すべての御車山を見ることができます。
ライトアップされた御車山はとても美しい上に、曳山囃子を
聞くことができます。
巡行のときには見られない調度品の展示も
行われるので、興味がそそられますね。
また高岡御車山会館では、時期や天候に関わらずいつでも御車山を見られます。
情熱の裏返し?安永の曳山車騒動の真実とは
お殿様からいただいた御車山を大切に思うあまりに、かつて高岡では騒動が起きました。
それが1775年の、安永の曳山車騒動です。
高岡の人たちは、高岡の御車山と同じ形式の車輪がついた曳山を、近隣の街で曳かないように加賀藩に申し立てて、それが認められていました。
同じ形式の車輪とは、車輪の中央と枠を輻(や・車輪の中心と外側の枠を放射状につなぐ棒・スポークとも)がつないでいるものです。
御車山はこの輻の1本に至るまで精巧な細工が施されている、特別感のある車輪です。
結果、輻を隠すように、車輪に板を貼ることでお互いが納得したのですが、祭りの当日に車輪から板が外されているのが高岡の津幡屋与四兵衛にバレてしまいます。
抗議して、いざこざを起こした与四兵衛は投獄され、それがもとで死んでしまいます。
この騒動で、高岡以外の地域では、輻の付いた車輪を使うことが許されなくなりました。
それは明治になるまで続きましたが、輻の付いた車輪が使えなくても、彫刻や漆塗り、彫金の充実を図ったため、富山県内には豪華な曳山が揃いました。
しかしこの騒動の結果、曳山や車輪が没収されたり、投獄される者もあり、近隣の地域は大きな影響を受けてしまいました。
ちなみに騒動の中心人物の与四兵衛は御車山の守り神として、關野神社に祀られました。
毎年4月3日には与四兵衛祭が行われ、多くの人たちが今でも
与四兵衛を讃えています。
静かで品がよい祭りからは、ちょっと想像もできない頑なさですが、そんな情熱があったからこそ高岡御車山祭は400年以上も続いたのでしょう。
本来は消耗品である御車山の車輪に、手間と金をかけた高岡の人たちの誇りが安永の曳山車騒動を引き起こしてしまったのかもしれませんね。
交通規制があるから、楽しめる!山町筋の町並み
高岡市内には、普段は路面電車が走っています。
毎年高岡御車山祭のときには、路面電車の架線をわざわざ取り外し、巡行後に架け直しています。
その長さは330mといいますから、かなりの手間がかかっています。
かつて東京の神田祭でも、曳山を曳くために路面電車の架線が問題になりましたが、東京では曳山の巡行を取りやめることで対応しました。
電車の架線を取り外して曳山を通す例は、ほとんどないでしょう(高岡のほかは秩父夜祭りくらいだと思われます)。
こうした鉄道会社まで巻き込む、高岡御車山祭は高岡の人たちにとって
本当に大切なことがよくわかりますね。
一部とはいえ、路面電車を止めてまで行うお祭りですから、もちろん交通規制も行われます。
JR高岡駅そばには市営駐車場がいくつかありますから、車で行くなら利用すると便利です。
交通規制を逆手にとって、ぜひ言ってほしい場所が山町筋です。
山町筋は高岡の町が開かれたときに、御車山を頂戴した10の町のことですが、
同時に職人の町でもありました。
高岡の町が開かれたときに、前田利長によって、
鋳物や漆塗り、染色、菓子作りの職人までが招かれました。
利長の死後も、高岡は城下町としてだけでなく、商工都市としても栄えました。
この職人の技術は御車山にも活かされています。
明治に入ってから、山町筋は大火災に見舞われました。
そのとき焼け残ったのが土蔵造りの建物だったことから、ほとんどの建物が土蔵造りで再建されました。
土蔵造りのほかにも、西洋の建築様式を取り入れた建築や、赤レンガの銀行が残されていて山町筋特有の情緒を醸し出しています。
この山町筋の町並みには、御車山がよく似合うので、高岡御車山祭のときには行きたい場所の1つです。
2012年には、大正から昭和にかけて祭りのときに提灯を吊るしていた提灯台が再現されました。
祭りの夜の提灯の明かりは、いっそう町並みを魅力的に見せてくれるでしょう。
交通規制されている祭りのときはゆっくり歩けるよい機会ですから、山町筋の風情もゆっくりと楽しんでくださいね。
まとめ
高岡御車山祭がいつ始まったのか、その由来や祭りにかける人々の情熱について解説してきました。
情緒ある町並みで、美しい御車山をぜひゆっくり鑑賞してください。
日本中に曳山が巡行するお祭りは数多くありますが、どれ1つとっても同じものは無く、それぞれが違う魅力を発揮しているのは、驚きに値します。
高岡ならではの御車山の魅力、日本人の手仕事の素晴らしさを存分に味わいましょう。
富山県はかつて加賀藩の一部で、加賀百万石といわれました。
ドラマや小説などで散々聞いて、知っているつもりでしたが、実際に1度御車山の車輪を見た方が、百万石の豊かさを理解できるかも知れません。
そして殿様からいただいた御車山を400年以上の長きにわたって守り通してきた高岡の人たちの頑ななまでの律儀さと、祭りにかける情熱から何か学べることがあるに違いありません。
爽やかな初夏に、ぜひ、高岡御車山祭で日本の伝統を満喫してみませんか。