昔から京都は人気の観光地でした。
寺社仏閣だけでなく、嵯峨野の竹林を歩いたことのある人も多いのではないでしょうか。
嵯峨野の住所は京都市右京区になります。
この右京区にある2つの神社で毎年行われるのが「嵯峨祭」です。
かなり歴史のあるお祭りですが、どんなことをするのか気になりますね。
今回は嵯峨祭の歴史や構成について解説します。
祭りの歴史を知っていれば、祭りへの理解が深くなりますし、
祭りがどんな構成なのかわかっていれば、効率よく祭り見物ができますよ。
嵯峨祭は2部構成?神幸祭と還幸祭とは
嵯峨祭は京都市右京区にある「愛宕神社」と「野宮神社」の祭礼で、毎年5月に行われる祭りは神幸祭と還幸祭から成り立っています。
神幸祭はこの世に神様を迎える儀式で、毎年5月の第3日曜日に行われています。
嵯峨祭では、清凉寺前に2基の神輿(愛宕神社と野宮神社)を安置して、神様の霊を神輿に遷します。
神幸祭は神様の霊を神輿に遷すことと、還幸祭の準備がメインになっているので、見物するなら還幸祭がおすすめです。
還幸祭は5月の第4日曜日に行われています。
神幸祭とは日程が違うので、出かける際には注意が必要です。
還幸祭では、2基の神輿とともに、剣鉾、獅子舞、子供神輿、稚児行列が
嵯峨一帯を巡行し、大覚寺へと向かいます。
大覚寺では神職により祝詞が上げられますが、僧侶による読経も行われます。
神道と仏教が一緒に儀式を行うのを疑問に感じる人がいるかも知れません。
その疑問は、嵯峨祭の歴史を知れば解消します。
神幸祭は神様がいらっしゃるので「おいで」、還幸祭は「おかえり」と呼ぶこともあるそうです。
還幸祭では神様が地上の世界をご覧になった後に、お帰りになりますから、この呼び方はピッタリですね。
神様が身近に感じられます。
神幸祭と還幸祭の呼び方は、日本の神社の大半で共通しています。
覚えておくと、お祭りを見物するときに役に立ちますよ。
大覚寺がカギ!愛宕神社と野宮神社の歴史的関係!
大覚寺は平安時代の初期に、嵯峨天皇の離宮として作られましたが、天皇が亡くなった後に寺に改められました。
明治になるまでの日本では、神仏習合といって神社の敷地内に神宮寺があるのが普通のことで、
神道と仏教はそんなに厳しく区別はされていませんでした。
愛宕神社は、明治に神仏分離令が出されてからの名前で、それまでは大覚寺の修験道場でした。
野宮神社は平安時代、伊勢神宮に奉仕のために向かう皇女が
身を清めるための場所、「野宮」が名前の由来となっています。
野宮の場所は、天皇が変わる毎に変わりましたが、野宮神社を使ったのは、嵯峨天皇の皇女・仁子内親王が最初でした。
愛宕神社と野宮神社は、大覚寺と深い関係があったのです。
嵯峨祭は後奈良天皇が大覚寺に、愛宕神社と野宮神社の祭りをするように
命令したことが始まりでした。
後奈良天皇は室町時代から戦国時代にかけての人ですから、嵯峨祭もその頃に始まったことになります。
実に450年くらいの歴史があるわけです。
その後江戸時代の後期に入ると、神輿が贈られ、愛宕・野宮両神社の氏子が主催する祭りへと変わっていきました。
現在も愛宕神社と野宮神社が一緒に嵯峨祭を行っており、
大覚寺と深いつながりがあるのには、こんな理由があったのです。
嵯峨祭は愛宕神社と野宮神社が、大覚寺という実家に里帰りするようなものですね。
現在祭りを主催する嵯峨祭奉賛会は、嵯峨小学校の通学区である29の町内会で成り立っています。
嵯峨小学校は創立130年以上という、歴史のある小学校です。
祭りに参加する人たちも、みな嵯峨小学校の卒業生なので、神輿を担ぐ人たちの法被の背中にあるのは嵯峨小学校の校章です。
嵯峨祭は地元の人たちにとって、馴染みの深い里祭になっているようです。
歴史ある祭りには、近寄りがたい雰囲気を感じることもありますが、小学校の卒業生が支えている嵯峨祭には、何だか親しみを感じますね。
嵯峨祭の見どころ!剣鉾差しとは何?
嵯峨祭の見どころは、何といっても還幸祭での神輿渡御行列です。
特に見て欲しいのは、剣鉾による剣鉾差しです。
剣鉾とは、長さが5m以上もある木の棒(棹)に、剣や金属の飾りを付けたものです。
これには悪霊を鎮める働きがあるといわれているため、祭りの際に神輿渡御の先導を務める役目を持っています。
このとき剣鉾を持つ人を差し手と呼び、剣鉾を持って巡行することを剣鉾差しと呼びます。
嵯峨祭の剣鉾は長いだけではなく、重さが60キロもあるといわれており、それを差し手が腰に付けた差し袋に立てて、バランスを取りながら進んでいきます。
ただ剣鉾を支えて歩くだけでも大変そうですが、差し手は剣鉾を上下左右にゆすり、鈴を鳴らしながら進んでいきます。
鈴の音には悪霊を鎮める働きがあるため、鈴を鳴らすのは差し手にとっては大切な仕事です。
嵯峨祭の剣鉾差しには高い技術が要求されるのです。
京都ではどの地域でも、差し手は年々減少して、今は剣鉾差しを見物するのが難しい状態になっています。
そんな中で嵯峨祭では、1度に5基の剣鉾による剣鉾差しが見られます。
剣鉾の歴史は古く、京都の祇園祭の始まりは神泉苑に66本の鉾を建てて疫病退散の祈願をしたことです。
つまり剣鉾差しを見物すると、平安時代の人たちと同じ景色が見られるということになります。
嵯峨祭に出かけるなら、ぜひ還幸祭の剣鉾差しを見物して、その美しい姿と鈴の音を楽しみたいですね。
還幸祭での神輿渡御のルート!剣鉾差し見物におすすめの場所は?
還幸祭を楽しみたいなら、大覚寺へ出かけるのがおすすめです。
毎年10時頃から清涼寺に設けられた御旅所で祭典が行われ、剣鉾を先導とする一行は大覚寺へと向かいます。
還幸祭での巡行ルートは1年毎に変わりますが、御旅所、大覚寺、嵐亭というポイントは変わりません。
このポイント自体が京都の名所といってもよい場所ですから、嵯峨祭は寺社仏閣と祭りの両方を楽しめるメリットがあるわけです。
昼頃大覚寺に到着すると、神輿に対して祈祷が行われます。
このとき、剣鉾が立てられるため、剣鉾をじっくりと見られます。
13時には一行が大覚寺を出発して、嵐亭へと向かいますが、大覚寺の勅使門の前と嵐亭の前で剣鉾差しが行われます。
どちらも広くて見物しやすいと、評判がよい場所です。
剣鉾にはそれぞれ麒麟鉾、龍鉾、澤潟鉾、菊鉾、牡丹鉾という名前が付いています。
その名前にちなんだ飾りが付いていますから、剣鉾の違いを探しながら鑑賞するのも楽しいですね。
また剣鉾の後ろ側からは、吹散(ふきちり)という旗のような長い織物を見ることができます。
実はこの吹散も嵯峨祭の剣鉾差しを難しくしている一因ですが、意匠が凝らされた吹散はとても美しく、見物するときの楽しみの一つになっています。
剣鉾差し以外にもある!還幸祭の楽しみとは?
剣鉾だけが還幸祭の見どころではありません。
神輿は神様の乗り物で、神様に私たちがいる世界を見ていただいているそうです。
神輿こそが祭りの主役といえますから、しっかりと見物してください。
2基の御輿のほかに子供神輿が加わっているのも、還幸祭の特徴です。
子供神輿を担いだ子どもたちが、いつか大人の神輿の担ぎ手や剣鉾の差し手になるのかな、とつい期待してしまいますね。
もし自分の子どもが参加していたら、見物にも力が入りそうです。
初夏のお祭りなのに獅子舞が出ているのも興味深く感じられます。
獅子舞もやはり悪霊を払うために日本全国で行われており、その地域ごとの獅子が存在しています。
そのため同じ獅子は2ついないといわれています。
嵯峨祭の獅子は鮮やかなオレンジ色で、2人1組になっているようです。
見物客に向けて機敏な動きを見せてくれるところなどは、愛嬌たっぷりです。
鮮やかなオレンジの獅子は初夏の青空によく映えて、よい思い出を作ってくれそうです。
かつての還幸祭には、走馬や大名行列、盆踊りの元祖といわれる
風流踊なども加わっていました。
現在はかなり簡素になったといわれる還幸祭ですが、このように見どころがたくさんあります。
地元の人たちが大切に守っているお祭りをぜひ、見物しに出かけたいですね。
そのときは、くれぐれも日程を間違えないよう、注意してください。
5月の第4日曜日は、そろそろ暑さが厳しくなってくる頃ですから、
熱中症対策も忘れないようにしてください。
まとめ
今回は初夏の京都、嵯峨地域で行われている嵯峨祭について解説しました。
なぜ愛宕神社と野宮神社の神輿が一緒に大覚寺に行くのか、歴史を知って疑問が解消しましたね。
嵯峨祭の見どころは還幸祭の剣鉾差しですが、5基ある剣鉾についてもそれぞれ説明しました。
見物するときにきっと役に立ちますよ。
剣鉾差しを見物するためによい場所も紹介しました。
還幸祭での巡行ルートは1年毎に変わりますが、見物するのによい場所は変わりませんから、安心して出かけられます。
剣鉾は悪霊を鎮める魔除けですが、美術品としても通用する美しさを持っています。
剣鉾を見るために、祭りを巡る人が大勢いるほどです。
嵯峨祭に出かければ、剣鉾にハマるきっかけになるかも知れませんよ。